COLUMN コラム
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014 ワールド・ビジョン・ラオスの地域開発援助スタッフたち

ワールド・ビジョン・ラオスの地域開発援助スタッフたち

2009年8月。私は国際NGO「ワールド・ビジョン・ジャパン」スタッフの、支援地訪問に同行。ラオス農村部に暮らす人々が抱える問題点を視察しました。そこで出会えたのが、「ワールド・ビジョン・ラオス」(以下WVL)の、3人のラオス人スタッフでした。一歩ずつでも自分の国の状況を良くしていきたい、という彼らの熱意と、ラオスの「今」を少しでも感じとっていただければ幸いです。

ラオス人民民主主義共和国は、人口およそ570万人の内陸国。首都ビエンチャンも、我々が訪れたいくつかの村も、治安は基本的に良く、出会った人は皆「シャイだけど温かなハートを持った人」ばかり。そんな彼らと接していると、つい忘れてしまうのですが、他のアジアの発展途上国と同様、慢性的な貧困問題と常に隣り合わせにある状態です。平均寿命は61歳で、5歳以下の乳幼児死亡率は、1000人中98人。児童の53%が栄養不良という統計が出ています。
開発に当たり、この国が抱えている大きな問題は、「教育」と「公衆衛生」。小学校の平均就学率は、政府の発表では83%。しかしヒアリングなどを通し、実際のところ卒業までできる子どもは、そこからガクッと落ちることがわかりました。また公衆衛生の問題も、都市部と農村部とで大きく異なっており、幹線道路、あるいはきれいに慣らされた道路に繋がっていない集落部になるほど、衛生環境は劣悪になります。

1950年、アメリカ人のキリスト教宣教師によって設立された「ワールド・ビジョン」は、「途上国の子どもの健やかな成長を支援する」ことを活動の主眼におきながら、地域の貧困を改善するための開発援助や、緊急人道支援、アドボカシー(市民社会や政府への働きかけ)を行っています。地域開発支援においては、開発途上国の子どもたちが未来への希望を持ち、健やかに成長することができるよう、地域の貧困の解決を目指す「チャイルド・スポンサーシップ・プログラム」を行っています。それらの支援を受ける側として、2003年からチャイルド・スポンサーシップによる活動を開始したのがWVLです。これまでは緊急人道支援の活動がメインで、長期的な地域開発支援はまだ始まったばかりだそうですが、国際協力組織としては、ラオス一大きな規模とのこと。国民の多くがワールド・ビジョンの存在を知っていて、それを聞いたワールド・ビジョン・ジャパンのスタッフは、非常にうらやましそうでした。

WVLは現在、チャイルド・スポンサーシップによる19の「地域開発プログラム」(Area Development Program、以下ADP)を進めていますが、私たちはその中の1つ、「パランサイ」という地域のADPを視察しました。首都ビエンチャンから四駆の自動車に乗っておよそ半日の場所にある、パランサイADP。1週間にわたる視察の中で、私たちにラオスの地域開発の現状と問題点を教えてくれたのが、3人のラオス人スタッフです。

Vatsana(ワサナ) パランサイADPのリーダーVatsana.jpg

50代の、恰幅のよい男性。初めて出会った時から、他のラオス人男性の持っている雰囲気とは少し違うなと思っていたのですが、それもそのはず。子どものころ内戦により弟と2人きりでアメリカ・ロサンゼルスに亡命。中華料理店などで働きながら弟をひとりで育てる、という大変な苦労をなさったのだそうです。その後も技術者として、数十年間のあいだアメリカで生活していましたが、3年ほど前にラオスに帰郷。ラオスの現状を知り、故郷の発展のために力を尽くす決意をし、WVLのスタッフになったということでした。
2007年からパランサイ地域の状況調査に着手し、活動計画を策定。2008年11月から本格的な活動を開始したVatsanaのチームですが、彼も彼の部下も、本当にタフ。洪水が発生するたびに四駆を走らせ、車が入れないところでは、足もとぬかるむ中をひたすら歩いて集落に入っていって状況を尋ねたりすることは、日常茶飯事。我々が視察を行う前の夜にも、寝袋を持ってその村に入り、村人に明日の段取りを夜通し説明し、協力を求めてくれたのだそうです。そのおかげで、当日私たちが到着した際には、村の長老主導で昔ながらの歓迎の儀式が盛大に行われ、非常に忘れられない体験をすることができました。

ワールド・ビジョンの支援は、地域の人々の中からリーダーを育成し、彼らが自発的に村の状況を改善していくことを狙いとしていますが、Vatsanaも例にもれず、村人が自発的に村の状況を考えるよう働きかけていました。(もちろんその都度、村にいま足りないもの・村で起こっている問題についての聞きこみは、していましたが)支援によって建てられた新しい校舎で授業を受ける子どもたちを見ながら、穏やかな微笑みを浮かべている様子は、「みんなのお父さん」という感じでした。

地域に入って2日目。Vatsanaは、スタッフと一緒にまとめてくれた資料を見せながら、プレゼンテーションをしてくれました。
■パランサイADPは、54の村からなる。そのうち15の村は、幹線道路から非常に遠い場所にあり、したがって貧困度も極めて高い。
■政府発表では、「この地域で安全な水が確保できている村は38。トイレのある世帯は、1453世帯のうち256世帯」とあるが、実情はもっと悪いだろう。
■パランサイADPチームは、「3つの主な問題」と「5つの主要プロジェクト」を提示。5年ごとに15の村で支援活動を予定している。以下が、5つの主要プロジェクト。上から3つが、メインとして取り組もうとしている分野である。
・education(支援により3つの小学校、2つの中学校が新設されているが、教師の不足や貧困によって学校に通えない・通い続けるのが難しい子どもが少なくない)
・food security(子どもの栄養不良状態の改善)
・sponsorship(地域内で、2000人の子どものスポンサーを見つける必要がある。いまはまだ、1000人くらい)
・health(公衆衛生の改善)
・leadership(地域のリーダー育成)

いずれの村でもまずは「education」と「food security」の向上を目指しており、道路・電気などインフラの整備はそれが整ってから、という考えのもと、プロジェクトが進められているということでした。また、それらの支援と並行して、新しく加わったスタッフの教育もしなければならない状況だそうです。Vatsanaのチームは今日も、精力的に活動していることでしょう。


Gai(ガイ) WVLとラオス政府との折衝を担当Gaijpeg.jpg

目が大きくスレンダーなGai。音の響きから男らしい名前だな、と思っていたのですが、本名はLatthaya(ラッタヤ)といい、Gaiはおばあちゃんにつけられたアダ名だということが、旅も終盤にさしかかった時点でわかりました。その意味は?と尋ねると・・なんと、「Chicken」!ラオスでは、カワイイもののくくりに入るのよ、と言っていましたが、私たち日本人には、よくわかりません。WVLで、パランサイADPを含むいくつかのADPで、WVLとラオス政府や行政機関との折衝を行っています。というのもWVLは地域の政府の役人に面会・説明を行い、許可をもらった上で活動する必要があるからです。私たちがいるあいだも、地域のお役人が3名、立ち会いにきていました。
村を訪れた際、Vatsanaのはからいで学校に子どもや母親を集め、年に定期的に行っている健康診断や妊婦への衛生教育、子どもへの物資配給の様子を見せてくれたのですが、面白いなと思ったのが、WVLが用意した(チャイルド・スポンサーシップの支援金で購入した)制服・文房具・遊具などを、立ち会いに来ていた地域の役人から、それぞれの子どもに手渡ししている様子。なんでも役人は地域の人々に非常に尊敬されているから、なのだそうです。
GaiもVatsanaと同様、非常に元気。洪水などで集落への行き来が遮断された際は、「腰まで水に浸かりながら村まで様子を見に行くの」と話していました。
 ワールド・ビジョンのワッペンがついた黒いポロシャツを着て、ほぼ毎日、私たちに明るく話しかけてくれたGai。最終日、私たちがパランサイを去る際にはピンク色のワンピースで現れました。それは「男性と同じくらいハードに動き回る生活を日夜している女性スタッフも、私と同じ女の子なんだよな」と、彼女への親近感が高まった瞬間でもありました。


Na(ナ) WVLのコミュニケーションスタッフNajpeg.jpg

そして、私たちを最初から最後までアテンドし、私たちがストレス無く視察できるよう力を尽くしてくれたのが、WVLのコミュニケーションスタッフ・Naです。「体調はどう?」「何か食べたいものはない?」と、終始気づかってくれたり、「あなた肌キレイね。SK-Ⅱを使ってるの?」などとジョークを言ったりと、彼女のホスピタリティが無ければ、この旅もこれほどまで楽しく・有意義なものにはならなかったことでしょう。(見た目もちょっと肝っ玉母さん風で、私たちは最後まで「おかん」と呼び続けました)
Naはラオスのかなりの上流階級の生まれで、もとは政府で働いていたというエリートなのですが、「自分がラオスにとって本当に役に立つ方法は何だろう」ということを追求した結果、WVLに転職したのだそうです。移動する四駆の中で「今の仕事こそが、私にとって本当にやりたいことなの」と、何度も話してくれました。また私が、「ラオスの人々は、とてもあたたかく素朴。もし開発が進んでしまったら、その良さも同時に失われるのではないかと、我々日本人は勝手ながら思ってしまいましたが、あなたはどう考える?」という質問をぶつけた時も、「それは私もそう思う。ラオス人のホスピタリティに関しても、自然に関しても。サステナブルな成長ができるような開発が手伝えるよう、常に思っているわ」という答えが。ラオスで生活しながら、同時に、グローバルな視野で状況を捉えている彼女に、深い尊敬の念を抱きました。

私たちの国が送った支援が、途上国の貧困を改善する。ここ数年、この仕事のお手伝いをしてきたにもかかわらず、これまでは支援先で誰がどのように状況を変えているのか、きちんと考えていなかったというのが、正直なところです。
しかしこの度ラオスを訪れ、WVLの現地スタッフたちの誠実さと情熱、勇気を目の当たりにしたことで、私は1段階大きな視野を得ることができたように感じています。日本でももっともっと、支援先の生きた情報が紹介されるべきだと、強く感じました。そして、地域の人々が今の素敵な笑顔を大事にしながら、貧しさを克服していくために、これから何をしていけばいいのか。そういったことを考えながら、支援というお手伝いをしなければならない。そう強く思った視察でした。

寄稿:小野麻利江(コピーライター)小野さん1jpeg.jpg

013 夏休み特別授業
川嶋先生の「子どもたちに未来を」

川嶋先生.jpg2025PROJECTでは2009年8月1日(土)、東京都港区立エコプラザ(
http://eco-plaza.net)にて夏休み特別授業
川嶋先生の「子どもたちに未来を」を開催。小・中学生の約40名のみなさんが受講しました。

1時間目
 佐野洋平さん(画家)
2時間目
 川嶋あいさん(アーティスト)
3時間目 小山内美江子さん(脚本家、JHP・学校をつくる会)
4時間目 川嶋あいさんスペシャルライブ

佐野先生と小山内先生.jpgまず1時間目は、画家の佐野先生の授業。実習を交えながら、ものを観察すること、ものの本質を見つめることの大切さについて学びました。 続いて2時間目の川嶋先生の授業では、スライドで川嶋先生のこれまでの途上国での教育支援が紹介されました。なぜこうした活動をしているのか、これから目指すことなどについて川嶋先生が語ってくれました。 3時間目は、「3年B組金八先生」でご存知の方も多いと思いますが、脚本家でJHP・学校をつくる会代表の小山内先生の授業。カンボジアでの教育にかける先生の思いが、時に冗談を交えながらしかし熱く語られました。そして先生の授業の最後には、翌日から実際にカンボジアに学校建設のために出かけるJHPのボランティアのみなさんによる「ソーラン節(ダンス付き)」が披露されました。そのダイナミックな踊りと歌に圧倒されていると、なんと生徒としていらっしゃっていたダンススクールのみなさんから、お返しの踊りを披露したい、との申し出が。急遽予定を変更して、ダンスを披露していただき、会場は割れんばかりの拍手に包まれました。 最後の4時間目は、川嶋先生の弾き語りライブ。目の前で演奏される弾き語りに、みなさん時間を忘れて聴き入っていたようです。 約2時間半にわたる授業は、あっという間に終了。新しい出会いや発見のたくさんあった授業だったのではないでしょうか。

012: 森山 まり子 日本熊森協会 会長 

森山会長写真3.JPG ●日本熊森協会 会長 森山 まり子氏
















日本熊森協会は、猛スピードで劣化していく日本の奥山を、全生物と人間のために保全・復元しようと、 森の最大獣である熊をシンボルに掲げ、活動を続けている完全民間の実践自然保護団体です。 「自然保護大国でなければ、21世紀は生き残れない。」として、国策の方向転換を可能にするために、 会員100万人を目指して活動しています。 また、日本熊森協会では、絶滅寸前の熊たちが教えてくれた日本の森の危機を 小冊子「クマともりとひと」 にまとめています。大変わかりやすい内容と、一冊100円という価格から、 まとめて購入してお店などにおいてくれたり、さまざまな場所で配ってくれる方も続出しているそうです。 版を重ね、現在では32万部以上販売しています。

日本熊森協会
詳しくはこちら



すべてのはじまりは、中学生が持ってきた新聞記事。

1992年。当時わたしは、兵庫県尼崎市立武庫東中学校で理科を教える教師でした。 その時、教え子が「ツキノワグマ、人間の環境破壊により絶滅寸前」という記事を持ってきたんです。 この新聞が、きっかけで、「えさ場を奪われ狩猟と有害獣駆除で滅びていく動物たちを何とかして助けてあげたい!」と、中学生が自発的に立ち上がった。ここから始まったんです。 1994年には生徒たちが兵庫県知事に直訴しました。そして、兵庫県のツキノワグマは狩猟禁止となりました。 それから、行政や研究者の方に多くお会いしたんですけども・・・、そういう方々は、まあ、動いてくれないんですよ。 そして真実を語らない。わたしたちは絶望してしまって。 だから、そういう人たちに頼ることをやめて、まず自分たちから動くことに決めました。 1996年に、岩波新書『アメリカの環境保護運動』を読んで、もう、目からウロコでした。 そして「自然を守るのは市民団体なんだ!」って気づいたんです。

日本人はある種オメデタイ部分があって、近づく水不足や食料危機に対しても、いざとなったら国が助けてくれる、 という風に思っている節があるんですが、「国」と「親」は違う。守ってくれませんよ。 こういう、市民団体が、国を動かしたり、専門機関を動かして、来るべき危機に備えていくしかない、 って事に気がついたんです。 熊森結成当時の教え子たちは、19歳、大学生になってたんですよね。 直訴した生徒たち5,6人とはずっと付き合いがあったので、その本をその生徒たちに読んでみないか、 と言ったんです。 それで、「やりましょう」「私たちが欧米並みの大自然団体をつくるしかない」という事になりました。 日本熊森協会(以下、熊森)は1997年に結成して、一年後に会員93人。 その後は倍々に増えていき、2007年に一万人を超え、もうすぐ22000人です。 今では日本一の実践自然保護団体です。


 「熊森」という名前に込められた、意味。

 名前から、熊の保護団体と誤解されるかもしれないですけれども、別に熊だけを守りたいわけじゃないんです。 生態系を守るためには、すべての生物を守らないと意味がない。 一種の動物・昆虫だけ守ろう!と言ってもダメなんです。全ての生き物を守らないと人間も生き残れない。 熊の棲む森、「熊森」を残そうとすれば、自然とその熊のまわりの小さな生き物たちも守ることができるんです。 それから、熊・鹿・猿・猪などは「害獣」で守る必要がないんだ、と誤ってとらえている人たちがいるので、 敢えて(害獣と思われている)熊を前面に打ち出そうと思ったんです。 害獣という風にしてしまったのは人間で、害獣なんていないんです。


尼崎の子どもたちが立ち上がった、必然性。

当時、行政は、そういう自然保護団体になんて人は動かない、って言ってたんです。 だけど、私たちはそんなこと言われて笑われても、ビクともしなかった。 欧米並みの100万人の国を動かす大自然保護団体をつくるんだ!という、その強い想いでやってきていましたから。 当初、よく、(保全したい場所の)地元の人から「街のもんは黙れ!」て、言われてましたね。 「"害獣守れ"なんて、許さんぞ!」って。そりゃ、地元は毎日被害を受けているから、当然ですよね。 でもね、世界の自然保護を見ていると、全ては都市から、なんです。都市が危機感を持たないと、ダメなんです。 まず、最初に動物や自然を壊してしまったのが、都市。私たちが壊したんです。 尼崎は、一番自然が失われた場所。人間が生きていくために必要な、酸素と水と食料、 これが尼崎にはもうないんです。 尼崎の人たちは、「ほかの町もこんなになったら、自分たちは生きていけないな。」 そういう危機感があるんじゃないでしょうか。田舎にいくと、一応は見渡す限りの緑に囲まれているから・・・。 だから、尼崎の子どもたちこそ、危機感を感じたんじゃないのでしょうか。 こういう会が、尼崎発というのは皆さんに驚かれますが、尼崎からはじまったのは、必然だと思っています。


戦うためには、数がいる。

 兵庫県の奥地が大変なことになってます、って行政に行くんですけどね。 じゃあ、何人ぐらいがそれを言ってるのか、っていつも聞かれるんです。 そして、行政は「一部の者のためには動けない」と。それからです、必死で会員を増やそうと思ったのは。 ただ、講演に行っても、話には賛同してもらえるのですが、いざ会員になってください、と言うと・・・。 怪しい団体や、お金を巻き上げられるのではと思われてそんなに会員数は増えませんでした。ショックでしたね。 熊森の活動資金には、私のお給料を全てつぎ込んでいました。転機はロータリークラブでの講演。 一旦講演が始まると・・・。一人も帰らなかった。 講演が終わってすぐ後、控え室にロータリーのメンバーの方々が次々にやってきて、 会員になります、応援します、と。みるみる会員が増えはじめたのがそこからでした。 メディアに載せてもらいたい、とも思っているのですが、「熊森」と言った瞬間に「興味がない」と断られる。 どうも、「頭のおかしい団体」と言われていたりしたそうなんです。 そんな折、昨年NHK『ラジオ深夜便 こころの時代』にださせてもらって。 午前4時からの放送だったんですけど、そのあと事務所の電話がパンク状態です。大反響でした。 「これで9回目や、やっと繋がった!」と言って会員になってくれた方もいました。 再放送、再々放送の依頼がNHKに相次いだそうです。

以前、日本の森や動物の危機的現状を広く知ってもらうために本を書いた方がいい、とよく言われたんですよ。 でも、教師もしていたし、一体いつそんなものを書く時間があるのかと毎日思ってました。命がけの毎日でしたからね。大げさかもしれないけれど、「今日生きて帰ってこれるかな」と思ってました。 ここまで寝てないと、死ぬんじゃないかと。 毎日家に9時頃帰ってきて、夜の10時頃から明日の授業の「脚本」をかかなければいけない。 それが終わってやっと、熊森の仕事です。こんな状況で本を書くってどうやって・・・。 そんな中、教え子にせがまれて、なんとか心を込めて書きました。(『クマともりとひと』) 当初、まったく反応は無かったのですが、ある会員の協力で、絵を加えたりしたら、爆発的に売れはじめました。 近くの美容院におかせてもらえるようになったり、本を買いたいという電話がどんどん入ってくるようになりました。


 知らされない、事実。

熊森の話をすると・・・。一般の人たちって、「大変な問題だ」「なんとかしなければいけない」と わかる人が多いと思います。 ただ、日本の行政、「エリート」と呼ばれる人は、弱者の気持ちがわからない人たちが多いのでは、と思います。 自分たちの保身や出世のために、3年では解決できないようなことには取り組まないようにしていたりするんですね。それから、日本の研究者ですが、海外の論文を参考にして発表することがあるみたいで、 そうすると考え方も西洋的になっていくんです。 政府も、"Wild Life Management"=自然を管理の対象、としてしまっているんです。 日本には明治になるまで「自然」ということばはなかったそうです。日本人にとって、自然は、畏怖・畏敬の対象。 手をあわせる対象なんです。山はご先祖が帰ってくるところ。神様が棲んでいるところ。 管理するなんておこがましい考え方なんです。だから、熊・猿・猪、巨木が日本には残っていた。 政府が「日本の森林率67%。豊かな森が残っている。」と発表していますが、今残っているのは「森」ではなくて「林」。国は、森をつぶし、スギ・ヒノキの人工林をつくり、管理して儲けようとしましたが、 管理するための人件費が捻出できず、安い輸入材に押されて・・・日本の林業は破綻しました。 人工林は人が手を入れ続けないと維持できないもの。しかし、放置されているものだから、 人工林内には、一年中日がささず、林床には草一本生えていません。 雨水で表土が流され、がれきがむき出しになっています。生き物の気配などまったくない、絶望的な死の空間です。 行政はいろんなデータを持っていますが、国民にはほとんど知らされていません。 こういう国のあり方は非常に問題で、国は滅びてしまうと思います。 そこに気づいている人が、少ないと思います。


 熊森を支える、本気のリーダーたち。

学校の教師を辞めて熊森に専任することになるんですが、当時ものすごく悩みましたね。 結局、娘に「学校の先生の代わりはいるかもしれないけど、お母さんの代わりに、熊森の会長になる人はいない」と 背中を押され、決意しました。 確かに扱う問題はとても大きくて大変ですが、幸せなことに後継者たちがいます。 国を変えようとする、本気の若者たちが。 武庫東中学も・・・当時、尼崎市の子どもの学力レベルはあまり高くなかったんですけど・・・苦笑、 それがみな「国を変えるためには、しかるべきところで勉強して仲間をみつけないと」と、自主的に勉強しだして、 何人かは京大や大阪外大に進学していきました。

大学生になった若いメンバーたちは、次々に新しい方法を思いつく。 セミナーや原生林ツアーもそうです。また、長野オリンピックのある頃に、 「機関誌"熊森"を売りに行くんだ!」と長野に行き、そのまま銀座まで行ってキャンペーンしてきました。 また、春休みにサンフランシスコに行くと聞いてびっくりしたこともありますね。 「アメリカを代表する自然保護団体シエラクラブに、どうやったらそんなに大きな団体になれたか聞きにいってくる」と。 その後もどんどん、思いのある若者が入ってきて次々に変化をもたらしました。彼ら・彼女らは、私の「同志」です。 そして、この子らが、大学卒業するときに「熊森に就職したい」と言ってくれたんですが、 受け入れることができなかった。その子らに払うお給料がなかったんです。 だから、そういう事を言ってくれる志高い若者たちを活かしてやれなかったんですよね。 最後まで残った子は本当に少なくて。 「地位や名誉、お金も要らない。日本の森や動物を守るために自分の人生を使いたい。」 そういう子だけが残りました。

活動を広げていく為には、「博士号」や「専門家」も必要でした。 ある教え子は、熊森に必要なのは「弁護士だ!」と主張し、自ら阪大の法科大学院に通い、 昨年一発で司法試験に合格しましたよ。現在彼女は、司法研修生で、裁判所などを経験し一年したら、弁護士です。 それから、博士号を持った若い人たちが何人か、各県の支部長になりたいと名乗り出てくれるようになりました。 熊森本部の大学院生スタッフの中には、 「熊森は、論文を発表しなければいけない。そのために、将来博士号をとって、学会をつくります。」 と考えてくれる人も。こういう風なことが、だんだん増えてきています。 リーダーたちが、本気。 そして、無欲。 だから、会員100万人、なりますね、きっと。


 自然に生かされている、私たちにできること。

今、急成長していますが、組織が間に合っていない。 組織化が、今後の熊森の課題です。いろんな人のノウハウを合わせて、やっていきたいと思っています。 行政とNGOが協力すべきだとも思います。それぞれが役割分担をして、解決していくべきだと思います。 「きっと動物はこう思うだろう。」 そういう事がわかる人でないと、共存はできない。 行政には、野生鳥獣との共存を検討する会などがあるんですけど、そこで動物の声を代弁できる人はいない。

先日、鹿の検討会があったのですが、まず話が駆除数の決定からはじまる。 「殺さずに解決できる方法はないのか?」そこから考えたいんです。 動物の気持ちがわかる。子どもたちはそれが自然にできる。 才能です。そういう声を活かしていきたいんです。 大自然保護団体をつくらないと、水が不足するようになって、この国は滅びます。 戦後、奥山水源域をスギ・ヒノキの人工林にしたり、スキー場として開発したり、地球温暖化や酸性雨も加わって、 荒廃させてしまったのです。 その結果、今、全国各地で山からの湧き水がどんどん減ってきています。 奥山を熊などが棲む保水力抜群の豊かな森に戻さないと。 早くしないと手遅れになる、と焦ります。 生物って、絶妙なバランスですよね。花が咲いて、虫がきて・・・。 科学なんかで制御できるものではない世界ですよね。 これをわからないで、管理してやろうと思っている人がいる。 そんな人が、今この国を動かしていたりする。 自然は永久に解明できない世界です。 だから、「人間は生かされている。」「自然に生かされている。」と、この活動を通して、本当にそう思います。

011: ジョン・バード BIG ISSUE創設者

ザ・ボディショップの創業者ゴードン・ロディックは、ニューヨークで出会った「ホームレスが作ってホームレスが売る雑誌」に刺激を受け、イギリスでもホームレスを支援する雑誌が作れないかと考えました。ゴードンが相談したのは昔からの親友で詩人仲間でもあったジョン・バード。ふたりは1991年、ホームレスだけが販売できる雑誌BIG ISSUEを創刊。この雑誌では売上の一部がそのままホームレスの収入となります。それは、ホームレスに施しを与えるのではなく、仕事を提供することで自立を支援するという新しいビジネスモデルの誕生でした。

イギリスでは、ホームレスの人々が「大人として振る舞うことができない、子どものような存在である」と思われています。私はそういう状況を変えたいと思いました。貧しい人たちが自立するにはきっかけが必要です。自立できるように私たちは支えていきたいと思ったのです。誰かのポケットマネーに頼ることを覚えることは、自立への妨げになります。恵んでもらうお金は、次はいつもらえるかわからない。お金をただもらうのではなく「仕事をして報酬としてもらう」というのは彼らにとって大きな安心なのです。

私自身5才の頃ホームレスでした。私の家族は何度も貧困状態にありました。飲酒や薬物、暴力が日常的にあったので、私は路上で生活していたのです。ホームレスであることで私は傷ついたりセンチメンタルだったりすることはありませんでした。一度も泣いたり嘆いたりしたことはありません。そんなことをしても何にもならないからです。でも、人生において悪かったことがいま役に立っています。悪かったことからどのようにセンスやキャラクターを養うか。ホームレスから学ぶこともたくさんあるし、逆もまた然りです。多くの人が社会的な支援活動に理想的なイメージを抱きますが、そういう感情を私は持っていません。センチメンタルなものではなく、「仕入れて、売る」というビジネスとしてBIG ISSUEをはじめたのです。市場は問題解決に最適の場です。当時、支援団体の人はBIG ISSUEに対して反対したり感情的に怒ったりしていました。それは彼らが物を与える活動をしているのに対し、私たちが利益を生む活動をしているからです。キリスト教の教義(It is more blessed to give than to receive. [Acts 20:35] 受け取るより与えるほうがよい)にのっとって信者たちは何百人、何千人のホームレスを支援しています。でも私は、もう支援ではなくて、彼らが自立して自分の道を歩めるようにするために仕事を与えてはどうかと思うのです。私は利益をすべてホームレスの人々に還元するために使いました。それはおもしろいやり方でした。

Q 日本では「ホームレスは好きでやっているんだ」「仕事なら選り好みしなければある、甘えているだけ」という意見が多いのですが、どう思われますか?

A 市場には多くの仕事があります。安定している仕事もあればそうでないものもあります。例えば私がカリフォルニアに行ったとき、白人のホームレスの多くはシンガーソングライターでした。自分の夢が破れたからホームレスになったのです。不安定なテレビ業界で仕事をしていた人もいました。彼らは失敗して誰かに頼らなければ生活できないという人たちでした。 ホームレスの中には安定的な仕事をしていた人もそうでない人も、両方います。しかし一度ホームレスになってしまうと心の中に「誰かに頼らざるを得ない」という枠が生まれてしまいます。でもそれは、他の職業でも同じだと思います。世の中すべての職業が、その職業特有の枠を作ってしまうのです。先生でも、警官でも。だからホームレスが「社会に甘えている」のは驚くことではありません。理由は貧困です。けれどもホームレスの中にも他の選択があるだろうとアクションを起こす人もいます。どうしてその状況を受け入れる人がいて、受け入れない人がいるのか、その理由を考えるのは重要なことです。私もどうして自分が自分の兄弟と違うんだろう、どうして他の人と違うんだろう、と思います。


Q 企業のCSRについてどう思われますか?

A 大切なのはお金をどう使うのか、と言うこと。企業が支えてくれているおかげでBIG ISSUEは世界中に広がっています(世界28カ国80の都市・地域、2007年10月現在)。私たちは貧困状態の人々とのビジネスに特化しています。ビジネスライクでありチャリティーライクではありません。残念ながら多くのCSRは何かを人にあげる形になっていて、機会の提供ではなくてお金をばらまくだけ。何かをクリエイトする形になっていません。対象が貧困に苦しんでいる人だと企業はセンチメンタルになってしまうのです。我々がやりたいことは、彼らをそこから救い出すビジネスです。

16年前にBIG ISSUEを創刊した日、ロンドンのダウンタウンでのことです。警察官がBIG ISSUEの販売者にコーヒーとベーグルを買ってあげていたんです。どうして?と聞くと「あいつは昔、人から盗んだりしていた。でもいまはBIG ISSUEを売っている」そのとき気づいたんです。 私たちは世の中になかったものを作り出したんだと。それまで問題を作っている側だった人が、問題を解決する側に回ったら、みんなも気づくんじゃないかと思います。


Q つらかった経験は?

A 政府がBIG ISSUEを捜査したことがありました。多くのホームレスが集ってくるので犯罪が起こっているのではないかと脅威を感じたのです。道路を安全に保つために BIG ISSUEが活動していることは多くに人には明らかだったのに。そのときのジョン・メイジャー首相は国会で謝罪しました。 逆に楽しかったのは、15周年のとき、自分たちのビジネスがどのようになるべきかを話し合ったことです。ホームレスとのビジネスパートナーとしての関係もよくなったし、組織としても大きく、強くなりました。私たちは、長い時間をかけて強いビジネスを築いたのです。イギリスでは確固とした存在になることができました。従来のように何かあげるようなやり方では絶対達成できなかったと思います。私たちがビジネスとして、ビジネスライクに動くほどホームレスの役に立ちます。逆にセンチメンタルにやっていると役に立ちません。イギリス政府は現在BIG ISSUEに助言を求めてきます。違う発想でやっているビジネスなので。表紙を飾るような有名人たちも、ひとりの消費者としてBIG ISSUEを買ってくれています。

BIG ISSUEは「ホームレスの」雑誌ではありません。「ホームレスが売っている」雑誌です。一般の雑誌と同じですから人気が出ないと利益が出ない。そのためには素材が必要です。有名人たちは取材にフリーで応じてくれていますが、彼らの場合もセンチメンタルな気持ちでなければいいんだけど、と思っています。いい雑誌の表紙としてビジネスで出てくれているんだといいと思います。素人が編集して作った安い雑誌ではなく、一般の雑誌と同じであることが重要です。私たちはホームレスが販売員になれるよう時間と努力を費やすのと同様に、売るにたる良質な雑誌にするために努力しています。かわいそうだから買う、という雑誌ではなく質の高い雑誌にすることが大切だと思っています。 ジュード・ロウやオアシスが表紙になったのはBIG ISSUEが初めてです。逆にBIG ISSUEがきっかけになって有名になった人も沢山います。過去の売上は年25%ずつ成長しています。成功するためには成功し続けなければいけません。事業として成功することはとても重要なのです。


Q BIG ISSUEのビジネスモデルは世界中で通用しますか?

A 国によってサイズや成り立ちが違います。地域差はありますので、あわせていくことは重要です。でも、それができればユニバーサルに通用すると思います。現在、中央アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ...世界中でやっています。 販売員は一人ひとり違います。販売スキルもまちまちです。マクドナルドではないのです。そこは考えなければいけないところです。その地域、社会においてホームレスであるとはどのように受け止められているか、も違いますね。アメリカではビジネスをやりにくいのです。それは「提供する」支援が根付いている社会だからです。でも、嬉しいことにどんどん多くの人が「物をあげる」ことの限界に気づきはじめています。

日本に関していえば、2004年6月、大阪でホームレスに会いました。私が驚いたのは、日本のホームレスは尊厳を持っているということです。ゴミを出したり散らかしたりしない。良い市民なのにホームレス、でも自分を保とうとしている。このことはいかに問題が深刻かを物語っていると思います。彼らに必要なのは、やはり何かを与えられることではなく、仕事を得ることではないでしょうか。

010:アリヤー・チュムサイ  ニサ・コンスリ

Innocence
2005/Thailand/100min
Websiteはコチラ



監督:アリヤー・チュムサイ&ニサ・コンスリ タイ北部の山の中に、山岳少数民族の子どもたちのための寄宿学校がある。様々な部族の子どもたちとタイ人の先生とが故郷の村から遠く離れたこの地で共に暮らし、作物の栽培や食事の支度もしながら勉強を続けている。生まれたときから村の近くを流れる小川とともに育ってきた山の子どもたちはみんな、いったいどこが川の最後なのか知りたくてしょうがない。校長先生は、卒業生たちへのご褒美として、川の終わりを見せに連れて行くことにした。子どもたちはみな貧しく、両親がいなかったり、母語でないタイ語のテストを受けなければいけなかったり大変な思いをしながらも、憧れの卒業旅行を目指して一生懸命勉強する。彼らにとってこの旅には、ただ海を、村の外の世界を見に行くということ以上の意味がある。それは子どもから大人に成長するための心の旅であり、その成長の過程で通らなければならない選択の旅なのである。(2007地球環境映像祭パンフレットより)

アリヤー・チュムサイ(写真右)Areeya Chumsai
1993ミシガン大学ジャーナリズム科卒業。1994ミス・タイランド。コラムニスト、大学講師を勤め、1997年、それまでのコラムを編集した最初の本「ポップ・スピーク」が全国的なベストセラーに。2005年1月釜山映画祭で「Innocence(原題は"デック?子どもたちは海を見る")」が企画賞を受賞。女優、写真家としても活躍中。

ニサ・コンスリ(写真左)Nisa Konsri
バンコク生まれ。大学卒業後、TV/CM制作プロダクションに助監督として勤務した後、フリーランスに転向し数多くのCM、ミュージックビデオの制作を手がける。タイの歴史叙事映画「Renaissance」、「One Night Husband」に参加。その後友人であるアリヤーとパートナーを組み「Innocence」を共同制作。


2000年のある日、私(アリヤー)はこの学校の子どもたちにランチを提供しました。それは、私にとって初めてのスポンサーシップでした。彼らは北部タイにあるチェンマイ市から貸し切りバスで、20時間もかけて、生まれて初めての海を見る旅をしてきた、卒業目前の中学生でした。 この「海を見る旅」は子どもたちの通うメートー学校の校長先生が発案したものでした。校長先生は都会から遠く離れたタイ北部の山の学校で学ぶ生徒たちが広い視野を持って成長してほしいと考えてきました。生徒たちは中学3年生の卒業試験に無事合格すれば、海を見に行く卒業旅行のチャンスを得られるのです。 彼らはランチをすごく喜んでくれて、すごく感動してくれました。

私たちはバンコクに住んでいて、自然から離れた生活をしています。 山に住む彼らは、私たちのようにたくさんのモノを持っているわけではありませんが、とても幸せでいます。いちばん印象的だったのは、海を見たある少年が私に言った言葉です。「僕は家族の中で2つの太陽を見た初めての人間だ。」2つの太陽とは、空の太陽と、海に移っている太陽のことなのです。自然に対する感性、生まれながらの感受性・・・子どもたちは心から人生の喜びに浸っていました。驚きと感動に満ちた人生。子どもの目で見る人生。これこそが人生本来の姿だろうと、私はこのとき感じました。

この物語を都市に住む人々とシェアしたいと思いました。それが私のモチベーションです。 彼女(ニサ)はコマーシャル、ミュージックビデオ、映画業界で助監督をしていたのですがあまり幸せではありませんでした。なぜなら、広告業界は沢山のお金は稼げるけれども、とにかく売れ、売れ、売れというプレッシャーがあるから。アーティスティックな感性をもちながら、広告主を満足させるために何枚も何枚も商品カットを撮らなければなりません。いかにモノを買わせるかという目的で仕事をするのには飽き飽きしていたのです。山の子どもたちと出会ったとき、彼女自身、バンコクの郊外に住み、奨学金を受けていたことを思い出しました。そんなこともあってこれが彼女の人生のブレイキングポイントになったのです。彼女にとって都市の生活は、幸せとはいえませんでした。たくさんの問題、たくさんの野望、怒りが都市には溢れています。

この学校で生活をして、子どもたちを見ていた彼女は、ある朝目が覚めて感じました。これが幸せのあるべき姿だ、と。良い先生がいて、良い生徒がいて、家族のように生活している。私たちは、都会では仮面を被っていなければなりません。でもここではそんなことは全く必要ないのです。自分自身の姿でいられるのです。私たちは自分自身に正直であろうと思いました。 バンコクに限らず大きな都市に住む人は、山の学校の子どもたちの純粋さに、みんな同じように驚くのではないかと思います。 私たちは、大自然から、本当の人生のあるべき姿から離れて暮らすことによって、自分たち自身がその大自然の一部であることを見失ってしまうのです。 お金を稼いで、渋滞の中で生活し、仮面を被って生きているのです。

私は、表面的には、車を持って、家を持ち、物質的には満たされています。しかしその結果、本来の自分を見失ってしまって、幸せとはいえなくなってしまったような気がします。いまの私たちは以前ほどお金を持ってはいませんが、やっぱりいまのほうが幸せです。この映画のおかげで、財団を作ることができ、そのお金で子どもたちの教育のためにお金を使うことができるようになり、それについて本当に幸せを感じています。 子どもたちからは毎日沢山の喜びの手紙をもらいます。それらは彼らの夢が語られているものであったり、毎日の出来事が書かれているものであったり、私たちは手紙を読んでいて笑顔がこぼれます。

一度、私たちがスポンサーとなって子どもたちをバンコクに連れてきたことがあります。エアコンディショナーからの空気を吸っていることとか、水を飲むにもボトルに入った水を買わないといけないこととか、ミニスカートが丈の長いスカートより値段が高いこととかを見た彼らは、都市に住んでいる人たちはとってもおかしな人たちね、と言いました。彼らは都市に住みたいとは思っていません。憧れてはいません。いまの生活のほうがよっぽど幸せだから。私たちもいまのほうが幸せです。

私はモデルで、彼女(ニサ)は撮影助手だったんです。カメラの前と、カメラの後ろ。 私はHITACHIやKAOのコマーシャルなんかにも出演しましたよ(笑)。私たちは2002年、歯磨き粉のコマーシャルで出会いました。ドキュメンタリーフィルムを作るには毎日会社に通勤しなければならないような仕事には就けません。私が広告のモデルの仕事でよかったと思うのは、毎日通う仕事ではないことです。広告の仕事は2、3日で沢山のお金になります。しかし、彼女は、もう広告の仕事には戻りたくないと言いました。彼女はもうそんなにお金を必要としないからです。

今回の制作費は自分たちで出しました。これは、インディペンデントフィルムです。誰も出資してはくれませんでした。タイでドキュメンタリーを撮りたいっていうと「ドキュメンタリー?ああ、ナショナルジオグラフィックみたいなやつね。ディスカバリーチャンネルとか。何撮るの?象?トラ?」というような反応が返ってきます。たくさんの制作プロダクションを回ったけど、誰もお金はくれませんでした。誰も。わかった、じゃあ、私が出すわ、ということになりました。編集と仕上げには3ヶ月かかりました。 制作をしている間は全く収入がないのでその間の生活費は自分たちで出し、自分たちが所有するもの、例えば、車やコンピュータなどを使用し、また1999年東京クリエーション大賞の海外賞の賞金でDVDカメラを買って、そのひとつのカメラで全ての映像を撮影しました。 また、金銭的なこと以外で協力してくれた人たちも沢山いました。例えば、編集スタジオ、MAスタジオは友人が協力してくれました。9000分ものフィルムを100分に編集したのですから大変な時間がかかりました。

2人の間で意見の違いですか?毎日でしたよ(笑)。でも、私たちが上手くいったのも一つには毎日ぶつかり合ったのが良かったのだと思います。私は広告でプレゼンテーションする人間、なんでも簡単に、単純にできると考えます。一方彼女はカメラの後ろにいる人間、リサーチしたり、制作の準備をしたり、編集したりする人間です。彼女はクリエーティブ側、私はプロモート側です。全然違うんです。陰と陽。私は運転するけど彼女は運転ができない。彼女には方角がわかるけど、私には分からない。私は物を持っていて、彼女はその使い方を知っている。私にはビジョンやアイデアがあり、彼女はそれをどうしたら形にできるか知っている。これでバランスがとれていろんなところで補いあってきました。 私たちは女性らしさとか、そういう面を持っていないので、私はこう思うけどあんたはどう思う?というような率直なやりとりを繰り返しました。意見がぶつかっても根に持つようなことはありません。 私たちは同じビジョンを持っていたんです。 例えば、この映画の題名については、私たちはディスカッションをし、クリック、一瞬にしてそれだ!と同意しました。わずか2秒で。

私は、社会活動をしているという意識はありません。私は、大学でもジャーナリズムを学び、ヒューマンストーリーは美しいと思い、それを人々にも伝えたいと思ったのです。私は、私にできること、したいと思ったことをしているだけです。私たちは、美しいストーリーを見つけてそれを人々に伝えたいと思いましたが、それには沢山の努力が必要で、時間とお金、経験も必要です。それが揃って初めて実現するのです。私は、ジャーナリストで書くことはできますが、彼女(ニサ)は彼女の経験をもとに助けてくれました。振り返ると運命を感じますが、それを実現するのに5年もかかりました。誰もスポンサーになってくれず、でも伝えたいという気持ちだけはありました。ストーリーの中の校長にしても、彼が癌であるとわかったとき、私たちは撮影をしながらも彼が亡くなってしまうのでは、と思いました。でも彼は回復しこのようなストーリーになりました。

2025年の世界がどうなっていたらいいか?地球温暖化はもっと進んでいるでしょうね。どちらかというとネガティブに考えています。もし、このような生活を続けていたらそうなるでしょう。特に今回(地球環境映像祭に)出品されているような映画を見ていると気持ちが沈んでいきます。 例えばアメリカ合衆国の人々は経済的に発展しよう、発展しようとしています。不幸なことに経済は、人間らしい生活より重要視されています。 農薬を使用して水を汚し、地球だけでなくお互いを汚し、もっと欲しがっています。金持ちはどんどん金持ちになり、貧困はひどくなる一方です。 私自身はヨガをしたり、ベジタリアンだったりしますが、人間の食文化を満たすために無理な飼育をしたり、結局それで食べ過ぎて肥満になり、病気になったりとか、早死にしたりとか。お腹がすいたから食べるというのとは違っていますよね。広告によって触発されているだけだと思います。私たちはもっと欲しい、もっと欲しい、と思って生活しているわけですが、それは決して満たされることはないのです。そのことに気づくべきだと思います。私たちに必要なのは、沢山のものではなく、それに気づく人間的な意識の改革だと思います。

009:アオキ裕キさん(『ソケリッサ!』企画・演出・振付・出演)

新人H「ソケリッサ!」とは
BIG ISSUEとAOKIKAKUのコラボレーションによるコンテンポラリーダンス作品。2007年1月23日、新宿シアターブラッツにて、6名の販売員の方が出演しました。チケットは2階の公演ともソールドアウト。企画・演出・振付・出演をアオキ裕キ氏が担当。


作品が出来上がったのは自分の力というよりも、みんなの力という感じがします。

人間って、華やかなところに目がいきますよね。で、華やかでない、寝てる人とか、目がいかない。華やかな芸能界とか、そういう場所にポンとその華やかでない人が立ったらいちばん面白いと思ったんですよ。自分としては街で歌ってる若い女の子の歌よりも、その華やかでない人の人生のほうが知りたいとか、やっぱりそういうところがあって。それは絶対一般の人も実はそういうところがあって、でもやっぱりどっかで目を背けちゃったりしてるんじゃないかと思って。やっぱりショッキングじゃないですか、世間の人たちにしたら。そういう刺激を世の中に与えることが、自分は面白いなと思うし。 チャリティどうのこうのっていうところからじゃないんですよ。遊び心の延長。そこからいろんなことが見えてきて・・・というカタチではじまりました。 最初から苦労するだろうな、ってところから入ったんで、思ったよりは全然その、苦労がなかったっていうのが正直なところです。みなさんが本当に自分の思うことを表現してくれて、全然恥ずかしがったりもしないし、どんどんどんどん積極的に動いていけたんで、自分としてはみなさんに逆に表現でも・・・作品が出来上がったのは自分の力というよりも、みんなの力という感じがします。 これ、10月から始めました。(レッスンは)週一回しかできないんです。みなさん販売があるんで。毎週土曜日に3時間ぐらい。あとは全然、日数的にはなかったです。それまでが逆に口説くというか、みんなをこう、誘うことに時間がかかりました。

(オーディションとかされたんですか?)

いえ、全然、全然。逆にこんなに集まってくれるとは思わなかったです。最初は断られて当たり前と思っていたのに。一般の人だって抵抗があるじゃないですか。一緒にやりませんか、舞台にでませんか、って言われたら。だからどうかな、と思ったんですけど、こんなに6人も出てくれて、全然その、お金云々ではなくて、気持ちで「はい」って言ってくれて。やっぱりそれって大きいですよ。 感想ですか?感動しましたよ。見てて、すごいやっぱり、自分のいった通りに、それ以上に動いてくれたし、横で見ててウルウルってきたところもありますね。でもなんだろ、これはみんなが本当に、生活自体が前に向かうというか、生活環境ががらっと変わったり、まわりの環境がその人にとって変わることが成功だと思ってるんです。舞台はもちろん、見にきてくださったお客さんにいいもの見せなきゃいけないんですけど、やっぱりこういうことをやってるということで、あの人たちの生活に変化が、そういうものが見えたらいちばん成功っていうところなんで、3回4回と続けていきたいですね。 メンバーは、あのままどんどん増えるならありですけど、サヨナラはないですね。まだたどたどしいところもあるじゃないですか。それが今後どう変わっていくかっていうところも見てほしいし、自分ももちろん成長していくし、みんなももちろん変わっていくっていうところは、やっぱりこれは芸術で、見せたいところなんですね。ひとつひとつじゃなくてまだまだこれから続いていく。


やっぱり認められないと、人ってどんどんどんどん元気がなくなっていっちゃうから。

(みなさんの変化は?)

積極的にはなってきましたね。 どっかでホームレスっていうものは保護されてるところがあるんですね。ボランティアとか、あなたはお金がないからあげますよ、ごはんをあげますよ、とかっていうところでは、あの人たち自身の個性は、あんまり見えてこない。自分はただ「これ、できるでしょ、やってください」って言っただけで、そしたらやる気っていうものがどんどんみんなの中に芽生えてきたってことは感じてます。 やっぱり認められないと、人ってどんどんどんどん元気がなくなっていっちゃうから。でもやっぱり絶対自分は、みんな才能あると思うし、どんな人でも能力っていうものは絶対あるはずだから、それをただ自分はキュッキュッとやればいい作品になるかなっていうところで。 (生活面でみなさんに変化はありましたか?) それはやっぱりね、時間はかかると思う。今後3回4回と重ねないと、重ねてもどうなるかわからないくらいのね、ここまでくるのに時間かかってるわけだから、これから変わっていくのもやっぱり時間がかかると思うんですね。それが急にポッと変わればすごいんですけど、でもやっぱり人ですから、これからどういうふうになっていくかっていうところも見てほしいなっていうふうに思います。


(どうやって口説きましたか?)

最初はだから本当に世間話をして、芸術に興味がありそうかなさそうかっていうのはだいたいわかるじゃないですか、世間話をした段階で。その人がいつもテレビしか見てないとか、そういうんだと(誘うのは)やっぱり強引だというところがあるんですけど。 「なんかこう、子どもが公園で遊んでて、でも何か壊れてて、自分はそれを直したいんだよね」って自分の生活よりもそういうことを考えられるっていうところとか、そういうので、あ、この人、なんかもしかしたら面白いことが一緒にできるかもしれない、とか、言葉の端々で自分は見つけて。で、自分の公演のチラシを持ってって、「自分はどこそこで踊るんで見にきてください」って言って。それがまあ、2回ぐらい。あとはまあ販売場所に行って、本当に世間話をしたり、もちろん断られた人もいっぱいいるし、「こんなのやんない」って。全然ありますよ(笑)。でも、(見に来た人で)帰ってしまった人はいないです。見にきた人はみんなきました。


(外国人がでてきましたが?)

あの人は日本と海外の関係性を見せたかったんですね。やっぱりこれは自分は日本だけじゃなくて海外に持っていって海外のホームレスと一般の人がコラボレーションしたりとか、そういう風に広がるまで自分は考えていて、どんどんどんどんグローバルな展開ってものにしたいんですね。あの人たちがホームレス問題にタッチするんじゃなくてもっともっと世の中に対して、みんなこうしたほうがいいよ、とか、このほうが面白いんじゃないかってそういうことをどんどんアピールしていくほうがいいと思って。ああいう風にでてきた。 (女性はでないんですか?) 女性の販売員の方が一人いて、でてほしかったんですよ。うん。それがちょっと忙しくてでれなかった。その方自体も、自分が大変なんですけど、ボランティアをしていて、だから時間が合わないってことで。


お金がなくても見える部分っていうものを、あの人たちはすごく見ている。

みんなは、一般の人はね、かわいそうだとか大変だとか言ってるんだけど、それはやっぱりお金がないっていうところ、その人の思考がお金中心だと思うんですよね。言ってる人の。でも逆にお金がなくても見える部分っていうものをあの人たちはすごい見てて、だから思った以上にお金が欲しいとかそういうのはないというのがすごい驚いたことで。心が、自分は本当に満足できるかどうか、やっぱりそこじゃないですかね。お金があってもすごいつらい人生送ってる人もいっぱいいるし、お金じゃないんだな、と感じました。


(家をどう考えますか?)

人と人のぬくもりを感じるところですね。人間性のあふれるところだったり、(段ボールでできてる家でも)そこにぬくもりがあれば家だと思うし、その人がそこでつらいと思っていたら家じゃないし。家に帰っても家族とかが足りなかったりとかしたら俺は家じゃないと思う。帰って来て疲れて寝るだけだったら、家じゃないと思う。 (外で寝たことありますか?) 夜はないですね。最初は、はじまる前は家に行ったりして同じ経験を積んで、とかいろいろ考えました。だけどよく考えたら特別扱いを俺はしたくない、しちゃうとまずいな、と。自分の家に急に人が来たらやっぱりちょっと、ん?ってなると思うし、やっぱりそれはおいおい、やっぱりもっともっと、機会があったときは行くかもしれないし、一緒に寝るかもしれないけど、いまはそういう強引なこと、じゃないですけど自分の思いだけをぶつけたくないですね。興味はもちろんありますよ。


(本番前のみなさんの様子は?)

静かでしたよ、緊張して(笑)。自分は踊りをずーっとやってるし、楽屋とかいつもいろんな人と一緒にいたりとかしますけどあんな静かな楽屋はなかった。緊張と、初めてのことなんで自分のやることを繰り返し頭の中でイメージトレーニングして、やっぱり年齢もあるしやろうとすることがでてこないことってたくさんあるんですよ。それをみなさん自分のやることを、頭の中でやることをコレ、コレ、コレというふうにやってらしたんだと思います。


アオキ裕キ:
アーティスト、タレントの振り付け、CM等携わった作品は80本を越える。近年はコンテンポラリー作品の制作をスタート。独特な視点、世界観、ニホン人的要素を持つダンスで注目され、現代人に相対しての芸術の役割を追及し、AOKIKAKUとして始動。04年NEXTREAM21最優秀賞、05年フランス、アンギャンレバンにてソロ出演等。

008:有限会社ビッグイシュー 佐野章二, 香取 剛, 池田真理子

BIG ISSUEとは
 『ビッグイシュー』は英国で大成功し世界(28の国、55の都市・地域)に広がっている、ホームレスの人しか売り手になれない魅力的な雑誌のことです。ビッグイシューの使命はホームレスの人たちの救済(チャリティ)ではなく彼らの仕事をつくることにあります。
具体的に、最初は一冊200円の雑誌を10冊無料で受け取り、この売り上げ2,000円を元手に、以後は定価の45%(90円)で仕入れた雑誌を販売、55%(110円)を販売者の収入とします。

くわしくはコチラ
http://www.bigissue.jp/

日本代表 佐野章二さん

雑誌の販売権を独占していただくという形で、「ホームレスの仕事をつくるという仕事」をしているんです。

ホームレスになる理由ですが、仕事がないから、というのが日本の場合。 英国や米国の場合は若い世代の方がドラッグだとかでホームレスになっている場合が多い。どちらかというと社会に適応できなくてなってらっしゃるケースが非常に多いんですね。アメリカの場合、退役軍人(いまイラクに出兵してますけど、あの兵士の人たちもほとんど若い人たちです。)がホームレスの約3分の1を占めるといわれています。そういうのも含めた、日常の社会に適応できなくなった方々がホームレスになっていく、というのが多いんですね。 それに引き換え日本の場合は、平均年齢56歳で、仕事がなくてホームレスになったというケースが圧倒的。最近は30代後半から40代にかけたフリーターの方が、仕事がなくなってホームレスになるんじゃないかということが、ちょっと現実化してきました。悪い方向に変わりつつあるんですけれども、それが日本のホームレスの状況なんです。ですから、仕事をつくることが大事。ですけれどもホームレスは住所がありませんから就職活動もできませんし、なかなか中高年の人たちに、ホームレスじゃなくても仕事を探すのが難しい。 で、僕らがやってるのはホームレスの仕事をつくるんですけど、雑誌を作るんです。その雑誌の販売権をホームレスの方に独占していただくという形で、ホームレスしか売れない、という形でホームレスの仕事をつくるという仕事をしているんですね。 どういう仕組みかと言うと1冊200円で200円のうち110円がホームレスの方の取り分ていうか収入になるということですね。彼らお金がありませんから、最初10冊は無料で差し上げてます。そうすると2000円ですね。2000円を元手に、あとは1冊90円で仕入れて200円で売って110円を収入に、それを繰り返していって貯金をしていただいて自立をしていただく、という仕組みですね。 じゃ自立っていうのはどういう風に自立していくんだということなんですが、3つのステップを考えていまして。いま、一日に平均約25冊くらいですね、売るんですよ。25冊売りますと2750円。大阪の場合ですと、釜ヶ崎(大阪市西成区にある日本最大のドヤ街、日雇い労働者の街。あいりん地区とも呼ばれる。)にいきますと簡易宿泊所があって600円かかるんですね。1000円くらいの簡易宿泊所泊まって500円のコンビニ弁当3回でちょっとお釣りがある。ということで、屋根のあるところへ。だから最初のステップは、脱・路上。第2ステップはそれに10冊か15冊余分に売っていただくと貯金できます。一日1000円くらい貯金をしていただきますと月に3万、7〜8ヶ月やりますと20万ちょっとできますので、これでぼろのアパート、4畳半で共同便所、そういうアパート借りていただいて住所を持つっていうのが第2ステップ。第3ステップは住所を持って新しい仕事を探していただく。そういうステップを考えているんですね。雨の日があったりしますから、天候に非常に左右される。平均的に、23日くらい。25いけばいいんですけどね、サラリーマンみたいに。


仕事を失い、家賃が払えなくなり、身近な絆さえも失った人がホームレスになる。好きでやってるわけじゃない。

一度仕事を失った方ですし、独りぼっちになって、つまりホームレスになるのは収入がなくなって家賃が払えなくなって、それだけじゃなく身近な絆を失ってのことです。転げ込む友達のところもないし、それからご家庭があったら家族が借金なんかで追われちゃって、で、絆を捨て一人でこっちに来てホームレスになって、というケースが圧倒的に多いんです。そういう絆を取り戻さないと。 仮に家が提供されて仕事が手に入って形のうえでホームレスじゃなくなってもね、絆の回復っていうのは大変ですから。そういうことを考えるとホームレスの方の自立だとか社会復帰はいろいろ大変な状況にあるというか。 ただ我々がやってますのはとりあえず仕事、現金収入が必要だからそれを提供するということをBIG ISSUEはやってます。 (他に現金収入を得る方法は?) いまあるのは、大阪でいちばん多いのはね、アルミ缶を回収するというのがいちばん多いですね。これは深夜ですとか朝早くですとか、アルミ缶回収するんですね。ついちょっと前までは1kg=100円くらいだったんですけど、これ相場がありまして、いま140円くらいにあがってますね。ただ、1kg=140円ですけど1kgっていうのはだいたい300〜400個拾わないとっていうことですから、大変な肉体労働ですね。それから夜とか朝早くやるから昼間寝てる。それを見て「あ、ホームレスはいい身分だな」とかまた差別される。そういう構造がありますね。東京での他の仕事は、古本を拾ってきて路上で売る、というケースがある。これもテロ対策なんかでゴミ箱そのものがなくなってきちゃってますよね。だからすごく仕事が少なくなってきてる。そういうところがあります。 (好きでホームレスをされているんでしょうか?) 3年間で558人の方々が僕らの販売員登録されたんですけど、付き合ってる感じから申しあげますと、そうですね、8割の人たちが働いて社会に復帰したい。それから高齢ですから病気の方が多いから半分福祉のお世話になって半分働くという風なことも含めて、やっぱり8割の方は働いて社会に復帰したいと思ってらっしゃいますね。残りの2割の方はさまざまですね。あえてドロップアウトされる方もいらっしゃると思いますけど、失業でホームレスになるという方が圧倒的だということですね。 BIG ISSUEがイギリスではじまったときは、ボディショップの創業者アニタ・ロディックとゴードン・ロディックというご夫妻の、ゴードンのほうがNYでストリートペーパーを見まして、これをイギリスでもやれないかと考えてジョン・バードという昔の仲間に依頼して始めた、ということですね。最初のNYからイギリスでコロッと変わったんですね。何が変わったかというと、NYのストリートペーパーはホームレスの方が書かれる。元ホームレスの方が編集・制作してるホームレスのホームレスによるホームレスのためのストリートペーパーというポリシーでやってる。それがイギリスでは、ゴードンとジョンが相談をして、それはそれで価値があるんだけど、自分たちはもっと面白い、一般の人たちが読みたくなる雑誌を作ろう、と。それを売る仕事をホームレスの人に提供しようということになった。自分たちはホームレスの表現よりも、雇用に興味がある、ということに変わって。それでイギリスの仕組みが全世界に広がって、いま28カ国80の都市と地域で同じようなものが出されているということになります。 いま誌面は3本柱で、インターナショナル(イギリスを中心としたセレブへのインタビューなどの記事)、あれはもらってるんですね、あれをとろうと思ったら大変なんですよね。だから助かってるんですけど。それから、リアルライフという国内特集ですね。それからバックビートというエンターテイメントですね。最初はそれぞれが3分の1くらいだったんです。やっぱり日本の読者の方に読んでいただきますからバックビート、国内特集のところをどんどん、いま65号になるんですけど拡充をしていきまして。いまインターナショナルは3分の1から5分の1くらいに減ってますね。


就職するのは簡単だけど続かへん、なかなか。

さっき自立には3つのステップがあると申し上げたんですが、アパートを借りるところまではBIG ISSUEをどんどんどんどん売ってお金を貯めれば可能なわけですね。問題は第3ステップで、新しい仕事をやるっていうのが大変なんです。僕らも3年やってきましたけど新しい仕事見つかったのは35人くらいですね。就職するのは簡単だけど続かへん、なかなか。続けていけるような体制ができないと、あるいは再就職するって言ってもトレーニングし直さないとできないということがございましてね。第2ステップまでは有限会社、ビジネスでやれるんですけど、第3ステップは非営利団体でやろうと思ってます。非営利団体でBIG ISSUE基金というものを作りまして第3ステップの新しい仕事を見つけるのを応援したいと思ってます。


生きてる喜びというか生きてる意味が感じられないと、人間って続けられない、やってられない。

ポイントはなにかっていいますと、家を失って収入を失うだけでは決してホームレスにならなくて、身近な絆を失うとって話をしましたけど、ある種の生活自立っていうかな・・・生活自立の中身っていちばんきついのは何がきついかっていうと依存症があるんですね。アルコール依存とかギャンブル依存とか。パチンコとかお馬さんとか。その程度なんだけど、お金持つと危ない人がいっぱいいましてね、その依存をどうするんだっていう話ですね。それから働くリズムをどう回復するかっていうのがあるんですけど。働くリズムの回復はBIG ISSUEをちゃんと売ってると、これはかなりきつい仕事ですからね、かなりそれがトレーニングになる、結果として。いま販売員120名ほどいますけど僕はその非営利団体作ったら半分くらいは新しいとこ就職させる自信がある、というくらいみんなちゃんとしてます。 それから就業トレーニングの支援が2番目。それから3つ目はね、この2つだけではあかんのですわ。何のために我慢してつとめるんだというね、やっぱり生きてる喜びというか生きてる意味が感じられないと人間って続けられない、やってられないですよね。だから3番目はスポーツ文化活動の支援をやってまして。例えばどんなことやってるかっていうと毎年ホームレスワールドカップってやってるんですよ。これ、フットサルの世界大会なんですけどね、4年に1回じゃなくて毎年やってるんですよ。そういうのやったり、ダンスのプロジェクト。明後日新宿で公演やるんですけど、(「ソケリッサ!」)前売りチケット完売しましたですよ。ダンスをやったり、HOPっていう、これはホームレスオーケストラ「ペコペコ」(お腹がペコペコとお辞儀でペコペコをかけてるんですが)これもライブをしてるんですけど、これもBIG ISSUEのなかではクラブ活動ということで土曜の夜7時?9時とかに楽しみでやる。で、まあ時に発表してもらうという形でやってます。それはもう文句なしに楽しいんですね。それやってるとみんな顔つきも表情も変わってきますしね。そういうことが、生活自立を考えたり、まただいぶ年配だけど新しいことにチャレンジしようという動機付けでありかつ意欲になる。その3つが3点セットでないと社会的な復帰ってことがいえないんじゃないかな、ということがこの3年やってきて言えるようになった。彼らも実際そういうことを楽しんでやっててダンスなんか2500円入場料とって、僕なんかもうそんな恐れ多いこと夢にも思わなかったですけどね、そんな恐れ多いことやるようになってきたんですね。喜んでるんですけどね。ダンスはまだふた開けて見ないと喜んでもらえるかどうかわからんからね、もうドキドキしてるっていうのが正直なところですけどね。


そんなこと僕がやらなくたって、誰かなんとかするはずやろ、というふうに思って見て見ぬ振りをしてたんですよ。

僕は大阪生まれの大阪育ちでしてね。大阪の町が大好きで、大阪の町そんなええもんやないんですけど、ええもんやないからいとおしいというね、そういう意味で大阪の町と阪神タイガースを愛してるアホな大阪の人間なんですけどね。ところが大阪にホームレスがいちばん多いんです、全国で。3年前の政府の統計では6700人、それから釜ヶ崎のドヤなんか行きましたらそれ以上の数の人が泊まってますからね、その倍はいるという状況で。やっぱりホームレスに会わない日はないんです。ミナミのほうから都心へ行くと。そのときどうしてるかっていうとね、じろっと見るのも失礼だし見ないのも失礼だし、ま、見て見ぬ振りをしてるんです。僕は見て見ぬ振りはマナーだと思ってるからね。全然そんなの気にしないんだけど、これがなかなか減らなかったんですよね。最初僕は自分がこういうホームレス問題をやる巡り合わせになるとか思ってなかったし、そんなこと僕がやらなくたって支援活動長年やってる方もいらっしゃるし行政もいるんだからね、そんな見苦しいもの、誰かなんとかするはずやろ、というふうに思って見て見ぬ振りをしてたんですよ。90年代終わりの平成大不況のときまた増えて、しかも公園にみんなあの辺からブルーシートはり出したんですよ。こりゃいったいどういうことなんや、ということでたまたま僕が都市問題とか地域問題のリサーチなんかの仕事をしてましたのでね、ホームレス問題を福祉の問題でもあるし失業の問題でもあるんだけど都市問題としてのホームレス問題というふうに考えたほうがいいんじゃないかと思いましてね、そう考えると都市をきれいにする仕事とか、都市の循環というかリサイクル仕事とかね、ホームレスの方にやってもらえるでしょ。そういう風なことも考えて行政にも提案したりとかしたこともあったんですけど、行政に提案するとね、大阪いちばんって言ったでしょ、大阪の人は提案したら「佐野さん堪忍してくれ」いまから5?6年前ですけどね。「堪忍してくれ、そんなん大阪にホームレスまた誘致するって非難される」っていうわけですよ。そういうのが行政の人たち。びっくりしましたけどね。で、企業にいうと、企業は「うちがリストラしたわけでもないのになんでよそ様がリストラした人を、我々が面倒見なきゃいけないんだ」だから誰も自分の問題じゃないんですよ。 で、僕はやりはじめたらやめるわけにはいきませんから、一市民に戻っていろんな人たちと一緒に研究会やっていたんですね。そこで出会ったのがBIG ISSUEだったということですね。

(販売員登録されたのは何人?) 3年間で558人。まずチラシをまいて、説明会をして、やる気のある人にやってもらっています。BIG ISSUEを売るのは「私ホームレスです」ってカミングアウトするようなものでしょ。だから自分で決断してもらうんです。販売員に(他のホームレスの方から)「俺もできへんか」って売り込みもあります。 (スタッフはどうされたんですか?) みんな働きたいって来てくれるんです。本当、助かってます。フルタイムは10人、僕と編集長以外は20代?30代です。販売員は50代後半ですね。僕はホームレスの人と若い人の共通性があるってよくいうんだけど、ともに仕事がない。BIG ISSUEの作る側は、若い人の働く場になればいいなと思ってます。


ビジネスだって社会問題に取り組めるんだってことをビジネスセクターの人にアピールしたい。

もう行政の画一的なやり方は終わっちゃってるからね。もう今さら言ってもって感じもありますね。もちろん低家賃の住宅を提供する政策を実施してもらうとかありますけどね。いま日本社会でいちばん力を持ってるのはビジネスセクターだと思います。そういう方々に、企業が社会問題に取り組んだり、民間の力をつないで社会が再生できる、そういうやり方もあるのか、と思ってもらえるように、なんとか経営的にも成功しなくちゃいけないと思っています。


2025年はもう最後のターニングポイントかな。

(2025年、世の中はどうなっていると思いますか?) ヤバいかなあ、と。僕らも雑誌の中でね、特集をしたんですけど、京都議定書を守っても2050年には2℃を超えると、地球の気温の上昇がですね。気温(の上昇)が2℃を超えると非常にヤバいといわれています。最近ではアマゾンも砂漠化するんじゃないかといわれてるんですね。だから地球にとって破滅的な事態に2℃超えるとなるといわれてるんですけども、それが京都議定書を守っても2050年にはそれを超えるという、東京大学の気候シミュレーターっていうのがありまして、もう結果でてるわけですよね。これも大変なことだし、とんでもないことだと思いますね。そういうことになれば我々いまのようなライフスタイルを10分の1ぐらいにしても生きられないような環境ができるように思いますね。僕らはもう死んじゃうからね、知らんよっていうたらそれまでなんだけど、やっぱりとんでもないつけをいま生きてる人たちや後世に残してたんじゃないかと。そういう意味で2025年っていうのは本当に破滅的なところへいくのか、2025年を目指して、2050年じゃ遅いからね、低成長であってもいまの環境を可能なかぎり保持する、どこに行くのかっていう最後のターニングポイントでしょうね。京都議定書は2010年っていいますけどどうも日本は守れそうもないっていう結果がでてますからね。ですから2010年に守れなかったって大騒ぎして2010年から2025年の間のですね2017、2018年ぐらいにはあるターニングポイントにしたいんですけど、2025年はもう最後のターニングポイントかな、そういう感じしてますね。そのへんは、僕らの雑誌でも若い人たちに読者が多いですから、これを精力的にアピールしていきたいと思います。生きる希望を持てるように、そんな風に思ってます。

スタッフ 香取 剛さん

自分のキャリアと、好きなものと、社会的に意味のあることが全部一挙にできるんじゃないかな、ってすぐ電話したんです。

僕はもともと音楽好きの少年で、94年ぐらいにイギリスのストーンローゼズってバンドがBIG ISSUEにでたって聞いたんです、17か18才だったんですけど。そのとき初めてBIG ISSUEの存在を知って、チャリティーではなくてビジネスで協力しているアーティストっていう仕組みを初めて知って、これはチャリティーと違ってかっこいいな、と。ずっと残っていて。僕はそのまま雑誌の編集者になって日々漫然と過ごしていたんですけどBIG ISSUEが大阪ではじまるとニュースで聞いて10何年ぶりに思い出して、これなら自分のキャリアと好きなものと社会的に意味のあることが全部一挙にできるんじゃないかなというふうになってすぐ電話したんです。立ち上げのときに絶対東京でもやるだろう、で、スタッフまだいないはずだ、と思って、東京来るなら僕やりますのでよろしくって言ってて。それではじまったって感じですね。 サポートとかケアとかそういう話は僕弱かったんでそういうのを求めてる(ホームレスの)人たちとはギャップあったのかもしれないんですけど、今日来てくれた方々はそういう経験のないカタい人たちだったんでそういう人たちに徐々に伝わりはじめてるかな。最初やっぱりホームレス業界じゃないですけど、狭い世界の話だったんで、そこから広いところへ発信していったりとか受け入れられる3年間をずっと格闘してたというか。小さくまとまんないようになるたけ発信して開かれたグループになりたいなって感じでやってます。 (ホームレスの人たちと)こんなに話ができると思わなかった。それこそ僕も偏見があったかも知れませんけど、やってみたら普通の職場と大差ないだろうって気がします。普通に仕事相手と普通に仕事して、少しでも売れるようにみんなで頑張ってるっていうニュアンスのほうが強いです。 日々お客さんが買っていく姿を見ていると、もうそれだけでかなりもう充実感達成感はあるんですけど、本当にいろんな人が買っていく。偏りもなく。だからそういうの見ているとすごく嬉しいですよね。まさかこんなにいろんな人が、って。

スタッフ 池田真理子さん

BIG ISSUEが大阪で始まったってTVで放映しているのを見まして、震えるぐらいやりたくなってしまったんですね。

なんでそんなに震えるぐらいやりたくなってしまったかっていうと、もともとホームレスの方の存在っていうのは何かしら気になっていまして、というのは私、田舎は長野で、長野で生活してたときはそういう路上生活の方って目にしたことがなかったんですね。東京に出てきていちばんはじめに目に入ったのがホームレスの方たちの存在で、東京っていうとみんな華やかでみんな夢を追って、っていうイメージだったので、そんなギャップがずっと頭の中にあって。ホームレスの人たちっていうのは私の中ですごく大きな存在で、東京に来て10年ぐらいたったときにBIG ISSUEが大阪で始まったってTVで見て、やっぱりホームレスの人たちっていうと、1.きたない 2.なまけもの3.やる気がないとか、いいイメージって全然ないじゃないですか。でもそれはなにか違うんじゃないかって疑問もあったんですね。でも大阪で始まったときの VTR見たときに,いままでやる気がないと思っていたホームレスの人たちがすごくイキイキ働く姿に感動したっていうか、やっぱりそうなんじゃん!って思ったのがあったし、あとはBIG ISSUEっていうのは、いままでホームレス支援っていうと食べ物を与えたりとかなにかを提供する、ということしかやってこなかったけれども、仕事を提供するってことはすごく先につながるし、あと表紙がすごく若者向きの雑誌で見た目も華やかじゃないですか、そのアンバランス感っていうか、すべていろんなことに魅力を感じました。すぐやりたいと思って電話をしてしまったのがきっかけです。

それまでは普通にモデル事務所のマネージャーをしていまして、もともと東京にはモデルの仕事をやりたくて、ショーモデルが夢だったので。それででてきたんですけど。 迷いはなかったです。モデルをやりたいって気持ちと同じくらいやりたかった。惹かれる仕事だったので、何の迷いもなく。 みなさん表面的なものしか見ないじゃないですか。でも私の中では同じもので比較しがたいくらいやりたいことだったんですね。なので、なんて言っていいのかわからないんですけど、いまは大変なこともありますけど、わかんないこともいっぱいあるんですけど、モデルをやってたときと同じ気持ちでやれている。むしろこっちのほうが自分らしい感じがします。 私は社会問題とか無関心なタイプでいま当時の自分を振り返ると、なんて無知で薄っぺらい人だったのかなって思いますね。 ホームレスも社会問題って意識では見てなかったですね。ただすごく問題だなと思ってて、この仕事してみるとホームレスの問題っていうのは社会問題なんだってわかってきて、だんだん社会問題っていうのに意識がいくようになって、ホームレス問題だけじゃなくて環境問題とかすごく幅広く視野が広がったという意味では転職してよかったなと思っています。


販売員さんと雑誌を買ってくれるお客さんとのやりとりは、普通のテンポとは違った接客っていうんですかね、それがなんかすごく素敵だなと思って。

難しいことですか?販売員さんも生身の人間ですから、そのやりとり、一度社会からはみ出してしまって復活するのってすごく勇気がいると思うんですね。だから勧誘するときとかもその第一歩を踏み出すのになんて声をかけたらいいのか。マニュアルとかまったくないじゃないですか。その人にあった勧誘の仕方とかもあるから、そういうのを見極めるのが難しいというのと、あとホームレスのイメージっていうのがやはりよくないからBIG ISSUEを広げていくのに時間がかかる、認知させるのに時間がかかるとか、いろいろありますけど。 いちばん嬉しいのが販売員さんと雑誌を買ってくれるお客さんとのやりとりを見ているとすごく達成感っていうのはあって、そうやって一人ずつ増えていくわけじゃないですか。すごくそのやりとりが普通のテンポとは違った接客っていうんですかね、本当に目を見つめてモノを買う?それがなんかすごく素敵だなと思って。ホームレスの人たちとそれ以外の人たちってすごく壁があると思うんですけど、その壁にBIG ISSUEが立って、なんかこう立ってるみたいな、そういうのを見たときにすごく、ああ、って思いますし、実際に仕事を探してる人もたくさんいて、BIG ISSUEをやることで自立した人を見るとよかったなと思うし、雑誌を読んで面白いっていう人がいたらそれもよかったなと思うし。

007:岸谷美穂

これまで我々人道支援関係者が特定されて狙われることってほとんどなかったんです。人道支援している団体はきちっとマークされて軍隊とかとは区別されていました。たとえばうちだと、PWJのロゴを貼ってますし、赤十字さんだと赤い十字のマークを貼ってる、と。暗黙のルールとしてそういう人たちは攻撃しない、っていうのがあったんです。でも、特にアフガニスタンとか、9.11以降、そのルールが守られなくなってきたというか。我々が軍事攻撃のターゲットになることが多くなってきました。もともとは一般市民が逃げてくる人道スペースと戦闘が行われる軍事スペースというのは分かれていたのに、その壁が薄くなってきています。例えば軍隊が人道スペースのところに入ってきて支援をするようになってきた、とか。境界線が見えにくくなってきたんですよね。加えて、戦争に参加する人たちが、これまでの紛争では、正規軍であったり、ある程度武装勢力でも統率のとれたグループだったのが、イラクの場合ではもうバラバラですからね。彼らには国際法も暗黙のルールもあったもんじゃない。結果として、武装とかしてないNGOが狙われて、他のNGOの人が誘拐される事件が多くなってきてしまいました。「ソフトターゲット」といって、丸腰だから軍隊より狙いやすいですから。我々のようなNGOの外国人スタッフが政治的な目的で誘拐されたり殺されたり、政治や戦争の駆け引きの材料にされるようになってしまったのです。そこから、逃げるのは簡単です。いま私がヨルダンにいるみたいに、イラク人スタッフにすべてを任すってことも可能ですけど、それはやっぱり難しい。事業がちゃんと回っているか、確認できないので。イラクみたいなケースは今後増えると思うので、どう対処していくのか、人道支援団体としてその辺りは考えていかなきゃいけないところです。

前回3月にイラクに入ったときに、刑務所で、テロ攻撃の容疑者として捕まっている人に何人か会ってインタビューしたんですが、正直びっくりしました。普通の青年なんですよ。20〜25歳くらいの人が多いんですけど、うちの受益者と変わらないんですよね、生い立ちとか生活環境とか聞いてると。貧困の村に生まれて、日本で神社やお寺があるように彼らにはイスラム教のお寺(モスク)があって、小さい時から当たり前のようにおじいちゃんに連れられてお祈りに行ってて。彼らの多くはちゃんとした教育を受ける機会がなかったのが現状です。イラクの場合、80年代のイラン・イラク戦争(1980〜1988)からずーっと戦争なので、そういう戦中に生まれ、家が貧しいから学校に行けなかったり、そもそも村に学校がなかったり。そういった中でどこから教育を受けるかっていうと、日本でいう寺子屋なんですね。要するにどの村にもあるモスクに併設されてるイスラム教の学校に行ってコーランを学びながらアラビア語や歴史を勉強する。そういう中で育ってきた、と。で、10歳〜15歳くらいになって農業とか家業を手伝い始めるんですけど、農業じゃ食べていけない。戦争中ですからマーケットがないんです。それで、将来に絶望していく。僕はこれから大人になっていくけれど何をしたらいいんだ、生活もできないじゃないか、と。そういうときに頼れる場所は知識をもらった学校というか、モスクになるわけですが、そこに外から来たちょっと悪い人が、じゃあ働いてみないか、お金あげるから、というので、考えずに、ほんとに考えずに、そこから抜け出すのにそれしか方法がないので、テロ組織に入ってしまう。で、爆破とかテロ活動をやってしまう。入ってしまうと脅されて抜けられなくなる。親殺すぞ、とかそういう風にいわれてやらざるを得ない。本人に会って話すと本当に目が死んじゃってるんです。じゃあ僕はどうすればよかったんだ、って。実はああいう自爆テロとか、テロ活動を実際にやってる人の多くは20代なんですよ。みんなイラン・イラク戦争が始まった頃に生まれて、一番悲惨だった90年頃小学校終えたぐらいの年頃で、湾岸戦争が始まってもっと経済的にしんどくなって。人が絶望に追い込まれて、それが原因でテロに走る。そして憎しみがまた、人を殺す。悪循環ですね。話していて、そういう循環があるというのを痛感しました。そういった人たちがもっと早い時期に絶望しないように、悪循環を断ち切るのも我々の仕事ではないかと。

なんでわざわざ外国人、日本人である我々がイラクなんていう地球の反対側の国に関わるのかと、私もそれはいつも考えるんですけど、やっぱり外国人でないと介入できない部分っていうのはあるんですよね。暴力の悪循環っていうのは現地の人々にはもうほんとにどうしようもない環境なので。それを断ち切るには外国からの圧力や介入っていうものが必要ではないかと。介入の仕方は非常に重要ですが。最終的には彼らの問題も我々の問題も、結局全部つながっていると思います。彼らがテロ組織に入って我々を誘拐したりとか、テロ活動がおこると、結局離れた日本にいる日本人にも影響が出るわけで。やっぱりこれだけ世界的なつながりが強くなってきている今、もう遠いところだからといって無視してはいけない問題である、と思います。よく、なんで海外でやってるんですか、といわれるんですが、そこは問題は海外でも国内でも根っこは全部実はつながってるんじゃないのかな、というのを最近考えています。我々はその中の一部である海外の問題に関わっているんだと。海外であろうと、それは私たちの問題でもあって、その関係を国際社会の中のひとりである自分が理解できたときにその問題も解決への第一歩が始まるのかな、と考えています。昔、イラク戦争の頃ですかね、宇多田ヒカルさんがブログでイラク戦争について、「無関心であることが一番の罪である」というのを書いていて、それはまさに本当にその通りだと思いました。自分の問題じゃないから関係ないと思っているとじわじわと実は自分の生活が制限されてくる。なので、我々の仕事、こういうNGOの仕事っていうのは困ってる人を直接短期で助けるっていうのも大事な仕事ですけど、加えて、まわりの、自分が住んでる社会の人に「私が関わってる問題っていうのは実は我々の問題でもあるんですよ」っていうことをアピールしていかなくては結局、本当の意味で仕事は終わらないと思うんです。実際は、本当に疲れちゃうんですよ、人の悲劇をみながら仕事をするのは。現実は、作ったら壊され、壊れては作り直して、と、仕事の終わりが見えない。例えば、村を復興しても、紛争が起こってまた壊れて、違うところに人が逃げて、助けて、また助けてもその人たちが実は大人になったらテロリストになってまた違う村を破壊する、と。終わらない。その連鎖を断ち切るよう働きかける仕事っていうのも、現場で目の前にして見ている我々自身が考えなきゃいけないのかな、と。そしてそれを話していかなきゃいけないのかな、と思います。ただ、なかなか簡単に理解されることではないし、その「つながってる」ことを普通の人に理解してもらうっていうのも難しいことなので、どういうツールを使えば分かってもらえるのか、というのは日々模索しているところです。我々現場担当者自身も、わかってもらえないからいいよ、ではだめで、どういうふうにそれをわかってもらうかというのを考えなくちゃいけないと思いますね。

宇多田ヒカルさんじゃないですけど、自覚を持つっていうのは非常に重要だと思いますね。結局戦争とか争いを起こしているのは人間であって、環境を破壊しているのも人間であって、人間がアクションを起こしてるからリアクションがくる。アクションを起こす人たちがそれを理解すれば止められるリアクションも多いと思うんです。もちろん単純じゃないんで、止まらない、不可抗力としてでてくるものもあると思いますけど、それでも大半はずいぶん変わってくると思います。そこが重要じゃないか、と。 本当にイラク人たちも早くああいう権力争いをやめて、もともと石油とかでリッチな国ですから、それを有効活用して自分たちで国の復興をしてほしいと思いますが。紛争の始まりというのは、なかなか気づかないけど、実は些細なことであったりすることが多いんです。私の学んだ紛争解決学でこういう話があります。姉妹がひとつのオレンジを巡ってけんかをしてる。で、もうけんかが全然終わらなくって、つかみ合いをやってる、と。そこにお母さんがきて、「なぜけんかしてるの?とりあえず話してごらん」って引き離して話させたら、妹は「オレンジジュースが飲みたい」姉は「オレンジの皮を使ってマーマレードジャムが作りたかった」じゃあ皮と中身を分けて渡せばいいじゃない、というので争いは終わるんです。まあそれは非常に単純化した話ですけど、実は双方がまぁ納得できる解決策ってあると思うんです。ただそれをお互いに感情的になって忘れちゃってるから終わらない。一歩引いて考えてみれば、解決することも多いんじゃないかと考えています。ただその渦中にいるとなかなかわからない。イラク問題なんかもなぜPWJが介入するかというと、イラクでは一歩ひいて考えられないくらいに混乱しているので、外国人である我々が間に入る必要がある。イラク人自身がそこをわかったらもう我々は必要ない。後は自分たちでジャム作るなりオレンジジュース作るなり勝手にやってね、だと思います。

私がこういう道に進んだきっかけは、大学時代にネメンゾ先生というフィリピン人の教授と出会ったことです。もともと国際問題に興味があったので国際関係学科にいたんですけど、現実味としてはよくわかんなかったんですよね、それまでは。ただ本を読んで、スリランカについてプレゼンやれっていわれて、いや、タミルタイガーが、ってやってたんですけど。その先生はマルコス独裁時代のフィリピンで実際にゲリラに参加されてて、民主化の指導者だった人なんです。その話を聞いてへぇーって東京では思っていたんですけど、フィリピンに海外実習で行ったとき、その先生が家に泊めてくれて、拷問された現場に連れてってくれたんですよ。「あそこの角で僕は警察に捕まってボコボコにされて、あのビルが刑務所であそこに入れられて、その後ここで拷問されて」とか。実際に現場と拷問を受けた先生を目の前にして、それで初めてそういう国際問題が自分の問題として消化できた。その時、大学の4年生でいろいろ悩んでたんですけど、人道支援という道を志したというか、足を突っ込んじゃったのは、そこで現実として考えちゃったから、でしょうね。 イラク人のスタッフって、私よりみんなすごく優秀なんですよ。私より全然英語できるし、アラビア語完璧だし、頭もいいし、すごくクリエイティブだし。それでもクルド人だっていうだけで迫害されて、パスポートひとつとれなかったんですね。優秀なのに阻害されて将来も描けなくて、優秀であるほどみんな海外亡命しちゃうんです。私がいた間でもスタッフ10人くらい海外に亡命して行きました。なんでこのスタッフが、こんなに優秀なのに、ドイツとか行って皿洗いしなくちゃいけないのか。やっぱこれは変えんないかんやろ、と。そして、彼らの子どもとかがまた同じ目に遭うのはおかしい、というのは非常に思う。私がそんなふうに思っているので、多分スタッフもついてきてくれたんだと思いますけど。 通常、海外亡命した難民はその社会の最下層に入ります。言葉の問題が大きいですね、ドイツ語とか。英語ができてもイギリスとかは難民政策が厳しいので受け入れられないし、入ったところで見た目がアラブ系というか中東系なだけで職がなかったりしますから。実際亡命した本人に会いにいったこともあるんです。ロンドンに亡命したうちの女性のお医者さんがいたので(「イラクの戦場で学んだこと」参照)。信じられない生活でしたね。ほんとに最下層の生活で。優秀な医者なのに。結局イラクでは免許があってもイギリスではその免許は通用しないので。お医者さんとして働けないですし、病気なので他の仕事もできない。そういうことを実際目にしてみるとなんかほんとにムカついちゃって。まぁそれがこの仕事を続けている原動力なんじゃないかな、と。最近は怒りっぽくってだめだなー、と思ったりもするんですが。もうちょっとロジカルにいかなきゃ物事は達成できない、とは思います。

なぜ、この仕事にこだわっているか、私自身もわからない時がありますね。うちは普通の家庭だし、普通に育ってるし。私を知ってる人は本を読んで不思議に思ったそうです。えー、こんな仕事をしてるんだ、と。原動力になっている怒りっていうのは、いわゆる怒ってる、というのとは違うレベルで、心の底からムカついた、というほうが正しいと思います。目の前で見てしまうと・・・多分感受性が強いんだと思うんですが。反発というよりは・・・反発ではないですね。自分が劣等感持ったからそれに対する反発とか、そういうのではないと思います。私自身、本書いてて、あ、私の原動力って怒りだったんだなあ、っていうのを自分で理解したぐらいなので。やっぱり人が泣いてるのとかみるのはすごく嫌。で、自分に何かできるんだったらやってみよう、っていう感じだと思います。

2025年ですか?その時はもう50歳ですんで、引退して、のほほ〜んと。実はのんびりした自然がすごく好きなんです。ハイキングとか、好きですよ。留学してた時は、スコットランドとかよく歩いてました。なんで、絶対引退してのほほ?んと穏やかに生活していたいな、と思ってます。本当にそう思いますね。で、みんながそういう生活ができるような社会だといいなと思います。例えばイラク人、うちのスタッフもみんな疲れてるんで、そういう風に、家族と一緒にのほほ?んと生活できるようになってればいいなと思います。あと25年で実現するのは、まだちょっと難しいかなとも思いますが。現実的には、そこまで早くそういうふうにはならないだろうなと思いますが、理想としては、なっていてほしいと思っています。


岸谷美穂:きしたに みほ
98年国際基督教大学教養学部国際関係学科卒業。2000年4月NPO法人ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)に入り、同年11月から2003年7月までイラク北部クルド人自治区で現場責任者。帰国後、報道番組のレポーターとしても活躍。05年英国ブラッドフォード大学大学院修士課程終了(紛争解決学)。2005年9月、イラクでの活動をまとめた「イラクの戦場で学んだこと」(岩波ジュニア新書)を上梓。現在、再びPWJでイラク事業責任者に戻り、現場の指揮をとる。

006:目加田説子(中央大学総合政策学部教授)

あれは、2004年秋のこと。ナイロビ(ケニア)で開かれた国際会議の会場の一角に、ありあわせの材料で作った義足が展示されていた。コロンビアで、地雷の被害にあった人が実際に使っている簡易義足だった(下写真)。 輪切りにしたペットボトルの注ぎ口に、数十センチの棒を差し込んだだけの義足。地雷で片足を失った人は、切断された太ももをペットボトルにはめこみ、棒を足代わりにして体を支える。そのままではすぐ外れてしまうので、ペットボトルに通した紐を肩にかけて歩く。





この、義足と呼ぶには余りにも質素な「足」は、地雷源で暮らす人々の生活を象徴している。現在、世界で確認されている地雷の犠牲者は約23万人だが、その大多数は途上国の中でも最も貧しい地域で生活している。地雷が埋まっていることを承知の上でも、田畑に入ったり、川に水を汲みに行かなければならない。文字通り、体を張って生計をたてるしかない農村で生きているのだ。しかも、地雷の被害に遭った後もそこで生活を続けるしかなく、何とか歩く手段を確保しようと必死なのである。

対人地雷は「非人道的兵器」と呼ばれている。それは、対人地雷は人を殺すことを目的とした兵器ではなく、むしろ生涯にわたって身体的障害を負わせるように設計された唯一の兵器だからだ。つまり、踏んだ片足を吹き飛ばすことを目的としているのだ。 戦場で兵士が地雷を踏んだとしよう。仲間の兵士は、片足が吹き飛ばされて大量に出血している同僚を放置したまま戦闘を続けることはできない。負傷した兵士の命を救うために、一度ベースキャンプにつれて帰らなければならない。その際、複数の兵士が担架で運ぶことになる。戦場では一人の兵士が地雷で負傷することによって、複数の戦士の戦闘能力が奪われることになる。 一方、兵士が即死した場合には遺体を放置して前進し、戦闘が収束した段階で遺体回収に戻ってくる。従って、殺すよりも、片足を奪う対人地雷の方が敵の戦闘能力をそぐ力が大きいことになる。 殺すことを目的にしていないとは言え、地雷で命を落とす人も多い。紛争が長く続く国や地域で対人地雷は、一般の人々が生活する場所で多く使用されている。田畑や道路、寺院や学校の庭等。結果として、川に水を汲みに行く途中で、薪木を集めに行く最中に、学校に通う道路で、犠牲になる。 成人男性の片足を奪う威力であっても、体力のない女性やお年寄り、子どもが対人地雷を踏んでしまえば、致命傷となることも少なくない。多くの紛争地域では、病院が近くにない、病院に辿りつく交通手段が限られている、といった理由から十分な治療を受けることができず、結果、大量出血で亡くなってしまうことになるからだ(途上国では、地雷事故から病院に着くまで平均6時間かかっている)。

対人地雷の問題は野放しにされてきたわけではない。1997年には対人地雷の製造や使用、貿易等を全て禁止する国際条約(通称オタワ条約)が成立している。日本を始めとして150カ国以上が加盟し、対人地雷の犠牲を食い止めるべく協力している。被害者の支援でも国際協力が進んでいる。NGO(政府からは独立して活動している民間人の組織)等から無料で義足を作ってもらっている犠牲者もいる。だが、その恩恵に与ることができるのは未だ少数に過ぎず、今でも世界各地で新たな犠牲者が毎日40人ずつ増え続けている。

コロンビアで、輪切りにしたペットボトルに片足を乗せて働く日々。2025年までに全ての被害者がこのような理不尽な生活から抜け出せるようにする為には、新たに地雷を使用しないことはもとより、既に埋められてしまっている地雷を一つひとつ除去し、犠牲者に対する支援を長期的に充実させてゆくことによって彼等が経済的・社会的自立を果たせるよう、地道に取り組んでゆくしかない。対人地雷を巡る問題の解決に魔法はない。


目加田説子:めかた もとこ
上智大学外国語学部卒業後、ジョージタウン大学大学院、コロンビア大学大学院を経て、大阪大学大学院国際公共政策研究科博士課程修了(国際公共政策博士)。1997年より地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)の運営委員を務める。著書に、『地球市民社会の最前線——NPO・NGOへの招待』(岩波書店、2004年)、『国境を超える市民ネットワーク——トランスナショナル・シビルソサエティ』(東洋経済新報社、2003年)、『地雷なき地球へ——夢を現実にした人びと』(岩波書店、1998年)、『ハンドブック市民の道具箱』(編著、岩波書店、2002年)等。

005:山本良一(東京大学教授 文部省科学省科学官) Vol.02

2025プロジェクトへのメッセージ

2025年が希望に満ちた平和で豊かな年になるためには、世界的に環境・経済政策や私達の生き方の空前絶後の一大転換を行わなければならないだろう。
(1)このままではどうなるか 個人、家庭、企業、地域、国家が環境を犠牲にした"物質的に豊かな生活"を求めたそれぞれのエコイズムに基いてこれまで通りの経済至上主義で2025年を迎えたとすると、人類は深刻な環境破局に直面していることであろう。現在のような高度経済成長を続けていった場合の最近の気候シミュレーションによれば、地球表面の平均気温の上昇が産業化前と比較して1.5℃を突破するのは2016年頃、2℃を突破するのは2028年頃と計算されている。人類以外の生物種を保全するためには気温上昇を1.5℃以下に、人類の中で水不足、マラリア、飢餓、洪水等のリスクにさらされる人口の大量増加を防ぐためには、2℃以下に抑制する必要があると言われている。地球の平均気温の上昇に伴い様々な気候変動が生じ、その結果2025年頃には次のような悪影響が生じていると予想されている。

*地球生態系の2〜47%が失われる
*ペルーでは氷河融解により飲料水、農業などで問題が発生している。
*アフリカでは穀物収量が減少する。
*クィーンズランドの熱帯雨林は50%減少する。
*インド洋などの珊瑚礁が死滅する。
*グリーンランド氷床の全面的融解が開始する。
*海面上昇とサイクローンにより1200万〜2600万人が移住を余儀なくされる。
*10〜28億人が水不足等の問題にさらされる。
*全世界的に穀物生産が低下し、食料値格が増大している。
*1200万人〜2億人が飢餓リスクにさらされる。
(Avoiding Dangerous Climate Change (2006)より引用)
2005年WHO(世界保健機構)は気候変動に伴う死亡者が既に全世界で毎年15万人発生していると発表している。


(2)ポイント・オブ・ノーリターン(引き返すことのできなくなる時点)は何時か 2005年から2006年にかけて、"地球温暖化"に関して更に多くの新しい科学的知見が得られた。その結果、人類の産業経済活動が原因の気候変動によって大気、海洋の温暖化が生じていることはほぼ確実である。地球の気候システムの巨大な熱的慣性のためにある時点(ポイント・オブ・ノーリターン)を過ぎると、たとえそれ以降温暖化効果ガスの放出を全面停止したとしても、それ以下に抑制したい気候ターゲットを突破して気温上昇は進んでしまう。このために"地球温暖化"問題へは可能な限り早期の対策が求められるのである。それでは地球温暖化のポイント・オブ・ノーリターンは何時頃であろうか。二酸化炭素(CO2)のような温暖化効果ガスの放出に対して、大気は10年程度、海洋は100年以上の時間をかけて応答することを考えると、大ざっぱに言って気候ターゲットを突破する年の10年程前頃がポイント・オブ・ノーリターンの年であると考えられる。そうすると高度経済成長下の気候シミュレーションの結果によれば(「気候変動+2℃」(ダイヤモンド社、2006年)参照)、1.5℃突破のポイント・オブ・ノーリターンは2006年頃であり、2℃突破のポイント・オブ・ノーリターンは2026年頃となる。すなわち、日本の研究者によって行われた世界最高水準の気候シミュレーションの結果によれば、今年がひょっとすると生物種の大量絶滅の引き返すことのできない年かも知れないし、あと10年程すると今度は人類の環境破局の引き返すことができない年かもしれないのである。もちろん気候変動のコンピュータによる予測はまだまだ改良の余地があり、これらの予測年度に絶対的な信頼性がある訳ではない。しかし、近年、急速な温暖化と深刻な環境影響の発生可能性を裏付ける多くの証拠が続々と見つかっている現在、この気候シミュレーションの予想通りに事態が進む可能性は高くなっていると考えられる。


(3)2005年から2006年にかけての新たに発見された科学的知見
1:2005年は観測史上最高気温であった!地球の平均気温は高い順に並べると2005年、1998年、2002年、2003年、2004年の順である。 2:大気の化学組成を一定にしたとしても更に0.6℃の温度上昇が予測されている。これは、CO2の年間排出量を半分にしたとしても、0.6℃の温度上昇があるということを意味している。
3:温暖化効果ガス濃度が550ppmCO2換算で気温上昇が2℃を突破する確率は66〜99%に達すると計算されている。CO2濃度が550ppmに到達するのは2050年頃と考えられている。わずか5〜10年の対応の遅れがこのしきい値を超える確率を増加させてしまう。
4:エアロゾルとダストによる日傘効果が明らかになった。
エアロゾルとダストは太陽光線を反射するので、冷却効果がある、このため中国、インド等の途上国で大気汚染防止が進むと地球温暖化は更に加速されることになる。
5:世界の海洋の温度は過去数十年間増大しており、これは人間活動起源の気候変動を考慮することによってのみ説明可能である。この研究により、今後20年以内におけるアメリカ西部の干ばつと中国の天山山脈の氷河の融解が予想されている。
6:北大西洋海流(メキシコ湾流)のオーバーターニング循環は2004年において1957年の量から30%減少したと報告された。これによる気温低下(北大西洋で2℃、ヨーロッパで0.5℃)は未だ観測されていない。ハリウッド映画「デイ・アフター・トゥモロー」の世界が一部現実のものとなる可能性があるのである。
7:南極半島の氷河、244の内87%の氷河でフロントが退去している(すなわち融けている)。ラルセン棚氷は2002年に12,500km2崩壊したが、これは過去1万間で始めての出来事であったと報告されている。棚氷の薄くなるプロセスは過去数千年続いて来たが、近年の温暖化がこの大規模な崩壊の引き金を引いたと言われている。つまり、氷河や棚氷は地球温暖化に対してこれまで考えられて来たよりも鋭敏に反応しているのである。
8: 2005年に大気中のCO2濃度は鋭く上昇した。2.6ppm上昇し、今や381ppmに達している。
9:植物からのメタンガス(CH4)の放出が発見された。世界全体で年間6億トンも放出されると見積もられている。
気温上昇と共に放出量も増加すると言われ、これは地球温暖化に正のフィードバックを与える。すなわち温暖化を加速する。
10:過去、大西洋の海水温がお風呂なみの温度だったことがあると報告されている。8400万年〜1億年前、海水温は42℃程度であった。当時のCO2濃度は現在の3.4〜6倍であった。この状況を再現しようと気候シミュレーションが行われたが、海水温はそれ程高くはならなかった。すなわち、現在の気候モデルは地球温暖化を過小評価している可能性が指摘されている。
11:この前の間氷期の海面水位は現在より4〜6m高かった。地球温暖化が急速に進行するとグリーンランド氷床の急速な融解により今世紀中に海面水位が数 m上昇する可能性があるかもしれない。従来考えられてきたよりも氷床の融解は、氷床の発達よりも加速度的に進むことは明らかである。
12:CO2の正のフィードバックにより従来考えられているよりも地球温暖化は更に厳しくなると評価されている。CO2濃度倍増は2050年頃で、その時の気温上昇は1.6-6.0℃と見積もられている等々。 CO2濃度は産業化前280ppmだったものが現在は380ppmへ増加した。100万個の空気分子(そのほとんどは酸素分子と窒素分子からなる)の内に 280個のCO2分子があることを280ppmと表すのである(ppmは100万分の1のこと)。大気中1ppmの二酸化炭素分子の総重量は80億トンであるので、産業化前と比較してCO2濃度が100ppm増加したということは8000億トンも余分のCO2が大気中に蓄積されてしまったということである。現在も毎年約150億トンものCO2が更に蓄積されつつあるのである。2005年から2006年にかけて発見された新たな科学的事実は、私達の将来直面するかもしれない温暖化による影響がより深刻であることを示唆するものがほとんどである。つまり気候シミュレーションの予測の精度がそれ程無いとしても、気温上昇が進行することは間違いなく、また加速化されて行くだろうと考えられているのであるから、結果的に1.5℃突破が2016年、2℃突破が 2028年になってしまう可能性は高いのである。


(4)何が問題か 人類の一部の人々が「物質的に余りにも豊かな生活」を実現したことが地球温暖化の原因であることは間違いないだろう。21世紀に入って中国、インド等の途上国も21世紀後半に先進国が追い求めて来たような「物質的に余りにも豊かな生活」を追求し始めている。エコロジカル・フットプリント(経済の環境面積要求量)という分析法で、各国の消費水準で世界を養うためには地球分が必要かが計算されている。アメリカ的生活様式では5.3個、イギリス3.1個、フランス3.0個、ドイツ2.5個、ロシア2.4個、日本2.4個、中国0.8個、インド0.4個と計算されている。世界全体では1.2個と計算され、現在の世界経済は地球の毎年の再生可能な生物生産力を20%オーバーしており、持続不可能であると結論されている。問題は先進国の資源エネルギーの"過剰消費" に加えて、途上国も同様な"過剰消費"を追求し出したことである。人類の生活は言うまでもなく"自然"に完全に依存している。食糧、飲料水、空気、CO2 の吸収、汚染の浄化等生態系の様々なサービスの恩恵によって私達の生活は成立している。ところが人類は"過度の物質的豊かさの追求"によって、私達が完全に依存している所の"自然生態系"そのものの破壊を全世界的に始めてしまっているのである。これは、"恩知らずの行為"というより"無知蒙昧から来る集団的自殺的行為"と呼ぶ方が適当であろう。生物種の大量絶滅は既に始まっており、今年2006年がその引き返すことのできぬ時点(ポイント・オブ・ノーリターン)かも知れないのである。すなわち、もうある程度の生物種の絶滅は避けられないかもしれないのである。オーストラリアの有名なグレート・バリアー・リーフのサンゴ礁も温暖化による影響で深刻な被害を受けている。


(5)では、どうすれば良いのか 答えは良寛さんのような心で生活し、先端科学技術を使いこなすことである。地球を一体としてとらえ、途上国の人々や人類以外の生物種の運命も自らの運命と同様に考え、感じて危険な気候変動を回避するために全力を挙げる必要がある。2025年にはこのような考え方が全世界に浸透し、人々の生活は次のように変わっているでしょう。

1:モノの所有や化石エネルギーの大量消費を自発的に避けた質素な生活に高い価値が置かれている。
大量にモノを所有したり、大量にエネルギーを消費することはやってはいけないし、また格好悪い行為なのである。
2:よりゆるやかな速度、より短い距離の移動、地域コミュニティを重視し、家族、友人、地域の人々と情報の消費や時間の消費を最大の楽しみとしている。毎年、何回も海外旅行に行くようなことは無くなり、その代わり、海外での長期滞在や、ITによるバーチャル旅行、エコツアーが主流になっている。
3:グリーンな生産とグリーンな消費が主流になっている。環境重荷のより少ない製品・サービス(エコプロダクト)を優先的に購入(グリーン購入)、また先進的な環境経営、CSR経営をしている企業に優先投資すること(社会的責任投資)が当たり前になっている。危険な気候変動回避のために空前絶後の環境・経済政策が世界的に実施されています。炭素税、CO2排出量の国際取引、国際航空便や国際為替取引に対する課税、途上国に対する大規模なクリーンエネルギー設備の供与等である。国連安全保障理事会は国連環境計画と一体化し、新たに国連環境機構として全権を握り、気候変動との戦いにおける司令部の役割を果たしているでしょう。

004:小久保利恵

大学1年のときに社会学の授業で、女性差別や病気にまつわる差別、エイズ差別など、差別全般について学びました。ハンセン病のこともそこで知りました。2 年になったとき、科目履修表にあった「中国ハンセン病療養所に行く」っていうプロジェクトが目に飛び込んできて、迷わず応募しました。 2005年8月に2週間、中国広州から車で7時間の山奥にある療養所を訪ねました。実は私はそれまで海外に行ったことがなくて、カルチャーショックがすごかったんです。まず、そんな山奥に行ったことがなかったし、あと中国の学生とのギャップ・・・中国の子ってすごくハキハキいいたいことは何でも言ってくるんです。それから、その生活、あったかいお湯はおろか水も出ないとか、そういう生活に慣れるのも徐々にって感じで。

ハンセン病ってうつらないし、安全な病気だって知ってるんだけど、中国に行く前は、もし目の前に患者さんが来て手を差し出されて、その手が取れなかったらどうしようって不安でした。でも実際に行ってみたら、足の悪い患者さんまでわざわざ家から出てきてくれて、みんなで「よく来たね〜」って出迎えてくれて。その一瞬で、別に何にも怖くないなぁって思って、手を握ったりハグもしたりできました。自分が今まで文献だけを読んで思ってきた「怖い」とか「大丈夫かな」っていう思いがすごく恥ずかしくなったっていうのがいちばんのインパクトでした。中国の人たちは、私たちから見ればすごく貧しい生活をしているのに、私たちにバナナをくれたりとか、なけなしのものでもてなしてくれるんです。こっちも悪いから「大丈夫だよ」っていうんですが、「いや、これはプレゼントだから」って。

同じ2005年の12月に1週間、授業とは別に台湾の療養所にも行きました。戦前に日本がつくったハンセン病施設が台湾にあって、その補償問題の裁判を応援していた関係で、8月に中国に一緒に行ったメンバーと行きました。台湾の人たちは日本語のできる方も多くて、生の声を聞くことができてよかったです。中国ではどうしても英語を介したコミュニケーションになってしまうので。

ふたつの療養所を見てまわって思ったのが、本当につらい思いをしてきた方々だからなのでしょうか、本当にやさしいなっていう。その出会いで私自身変わった部分があります。

ミス日本に応募したのは、その授業をとろうと決めたのと同じ時期でした。自分を変えたいっていうか、何か行動を起こしたいと思って応募しました。もちろんミスに選ばれるかどうかなんてわかりませんでしたが、もし選ばれたら自分の興味を持っていることを若い人たち、同世代の人たちに伝える役目をしたいと思っていました。ジャーナリストになりたいっていう思いはいまも変わっていなくて、将来必ず、貧しい国へ行って役に立つようなことをしたいんです。ストリートチルドレンやいろんな問題についてわかりやすく伝えるとか、ハンセン病のこともずっとやっていきたい。ただ、ミス日本になってから芸能界のほうからもお話をいただいていて、迷っています。もっと有名になったらもっと影響力があるだろうし、そうしたらもっと多くの人が話を聞いてくれるんじゃないかな、という思いもあって。

4月から新学期が始まったんですが、授業を詰め込みすぎてさすがにちょっと・・・(笑)でも4年でちゃんと卒業したいので。卒業までに英語を何とかしたいんですよ。中国へ行ったときに現地の学生と話していて、うんうん・・・って適当に相づちを打っていたら「ほんとにわかってるの?」って。すっごい馬鹿にされました(笑)。でもこれから世界に出て行くには英語は必須なので、卒業までに頑張ります。勉強しなきゃいけないことも、やりたいこともたくさんあって右往左往している毎日です(笑)。

2025年、私何歳だろう?40歳!? え〜っ・・・ショックだなあ、あと19年しかないんだ、40歳まで・・・。 2025年、生活がどうのっていうよりも、社会がもっとあったかく、もうちょっと人に関心を持ってる社会だったらいいですね。いま街を歩いていても誰も他人のこと気にしないのが普通だし、だからこそボランティアやってることが珍しくて浮き出るわけじゃないですか。別にボランティアしてください、とはいわないけど、例えば街でおばあちゃんがすごい荷物持ってたら手伝ってあげるとか。そういうのが自然な社会になってるといいな、と思います。 生活はもっと便利になってると思いますけど、同時にもっとエコとかリサイクルとか徹底した世界になってるんじゃないかな。車もほとんどすべてハイブリッドカーとか。あと北朝鮮の拉致問題が解決できてるといいなって思います。なんだかんだいってすごい年月がかかってもまだって感じですし・・・。 そして戦争がなくなったらいいなって思います。なくなったら、ってすごい偽善者っぽいいいかたですけど。「平和」っていう言葉も偽善っぽくてあんまり好きじゃないんですけど、でも本当に平和っていう、そういう世界になってればいいな。偽善っぽくじゃなくて。なんか、言い方が難しいですけど。

小久保利恵:
2006年度ミス日本グランプリ。同コンテストは、第1回大会に女優の山本富士子さん、第19回大会では映画監督の伊比恵子さん、第24回大会では女優の藤原紀香さんなどを輩出している伝統あるコンテストです。小久保さんは、神奈川県出身、特技はサックス演奏、早稲田大学在学中。


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004:Rie Kokubo In my freshman year at university, I took a sociology course on discrimination.. That's where I got my first knowledge on the discrimination towards Hansen's disease patients. When I was trying to decide which courses to take for my sophomore year, my eyes landed on a study- visit program to a Sanitarium for Hansen's disease patients in China. I signed up. Immediately..

The two week visit in August, 2003 took us to a Sanitarium located deep in the mountains, a 7hour car ride from Guangzhou. This was my first trip overseas, and it was definitely a culture shock. for me. I had never been to such a remote mountainous area in the first place, and the straightforwardness of our counterparts, the Chinese students…well, they didn't hesitate to tell their views on anything.. It took us a bit to get used to the living conditions there, too, with not much water available in the mountains, much less hot water that we have been accustomed to in our cozy life back here in Japan..

Hansen's disease is not a transmitted disease, and physical contact with the patients poses no danger. Still, I wasn't exactly sure what my physical reaction would be when I actually met them.. What if I froze trying to shake their hands? But when we reached the sanitarium and the patients came rushing out of the houses to greet us, even those patients having trouble walking, all my reservations went out the door. We gladly shook hands with them, and hugged them.. I became ashamed that I had felt a little scared. You see, all my knowledge was from the books I had read. These people in China, their living conditions are definitely poor compared by our standards, but still they give us things like bananas or whatever they can afford as treats. Naturally we feel a little bad about it, and try to tell them that it is not necessary, but they still insist, saying "no, these are presents for you."

In the December of the same year, I went to visit another Hansen's disease Sanitarium in Taiwan, along with the same members that went to Mainland China, but this time not as a part of the university study program. This Sanitarium was built by the Japanese in the pre-war period, and I had become a supporter of the patients' compensation claim for their forced internment. Many of these Taiwanese patients speak Japanese fluently and we were able to hear from them first hand, and this was a valuable experience for me. In Mainland China, the exchange was mostly through English. and we definitely had trouble communicating the nuances..

What impressed me the most during the two visits is how these patients, despite going through such terrible experiences, could still be so gentle and kind human beings. Or is it because they have gone through so much? I think I myself have changed a lot since then, touched by the experience of meeting these people.

The period that I decided to enter the Miss Japan pageant was the same time that I decided to take the sociology course. At that time, I wanted to change myself. I wanted to take a step forward. I had no reason to believe that I would be chosen Miss Japan, but I had a vague idea that if I was indeed chosen, I could play a role in communicating to my generation the issues that I was interested in. I still want to be a journalist, and going to the poor countries to do some kind of work that would be of use to them., that is still an option in the future for me. I want to speak out on the issues facing the street children around the world, and I want to be involved in the Hansen's Disease issue. But since I have become Miss Japan, there have been offers from the entertainment industry, and to tell the truth, I have being thinking a lot about these other options lately, too. If I become more famous, then maybe I will have the influence to have more people listen seriously to what I have to say.

The new semester started this April, and with the number of courses I have signed up for, it will be a pretty heavy academic load…But I do want to graduate this year. Blushing up on my English is a priority, too. When I went to Mainland China, I spent a lot of time just nodding my head, and the local students started to wonder if I really understood at all. (laugh) But seriously, you need to have English skills if you want to go out into the world, so I will put a lot of energy there until my graduation. So much to study, and so much that I want to do. Every day is pretty hectic for me now.

About the year 2025? How old would I be then? 40 years-old! My, just 19 years till I become 40…

What will it be like in the year 2025…? Well, I definitely hope that we would have a society that cares more about people. Nowadays. I think people have started to lose that caring feeling and people doing volunteer work stand out because they are a rarity. I am not going to push everyone to become volunteers for a cause. But lending a casual hand for some old lady in trouble, wouldn't it be nice if things like that become a normal, everyday sight?

Everyday life will probably becoming even more convenient and that's nice, but at the same time I want the society to be much more eco-conscious, and serious about recycling our resources. Cars becoming all hybrid by then?

And there's the North Korean abduction issue. So many years, and still not going anywhere…

Finally, I hope that war there is no more war. I know that just saying "no war" sounds like a hypocrite these days. And just saying "peace" sounds hypocritical, too, and I don't want to throw that word around easily, either. But forgive me, since I haven't figured out a way to say it another way…I hope for a world that is really in peace.

Rie Kokkubo :
2006 Miss Japan Pageant Grand Prize Winner. Past winners of this prestigious pageant include actress Fujiko Yamamoto, film director Keiko Ibi, and actress Norika Fujiwara. Raised in Kanagawa, Miss Kokubo is an accomplished saxophone player and presently attends the Waseda University.

003: 山本 良一(東京大学教授 文部省科学省科学官)

私たちはどんな世界を生きているのでしょうか。
国境を越えて様々な製品、食糧品、ニュース、お金が動いています。
年間7億人もの海外旅行者を乗せて、4、400万機の飛行機が離発着しています。
つまり、すでに“世界”は一体化しているのです。
有限な地球で物資的豊かさを過度に追い求めた結果、最近の科学的研究 (http://sos2006.jpの報告書参照) によれば、2025年頃には深刻な環境危機が予測されています。 (世界の平均気温は2003年の時点で0.8℃上昇しています。
そして現在のような環境を破壊しながらの経済成長を強行していけば、あと20年後には気温上昇が2℃を突破するといわれています。
気温が2℃上昇すると2050年には水不足人口27億人、マラリア3億人、海面水位上昇による影響0.3億人、飢餓0.1億人の計30.4億人が気候リスクにさらされると予測されています。)
地球はそこに暮らすすべての生命のものであり、また未来の生命から借りているものでもあります。
私たちは豊かさや生きている喜びを世界の人々と分かち合い、知恵を集めて予測される危機を突破しなければなりません。
今この瞬間(毎秒)、全世界で誕生する4.2人の赤ん坊を立派に育てていくのは今を生きる私たちの責任です。あなたはそう思いませんか。

005にも続きのコラムがあります。ぜひご一読ください。

山本良一:
1969年東京大学工学部卒業、1974年、東京大学大学院博士課程修了。工学博士。現在、東京大学生産技術研究所教授、サスティナブル材料・国際研究センター、文部科学省科学官。エコマテリアル研究会名誉会長、日本LCA学会会長、社会的責任投資フォーラム・理事、日本環境効率フォーラム会長、国際グリーン購入ネットワーク会長など多くの要職を兼務。著書に、『地球を救うエコマテリアル革命』(徳間書店刊)、『1秒の世界』、『世界を変えるお金の使い方』(ともに責任編集、ダイヤモンド社刊)など多数。


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003:Ryoichi Yamamoto (The University of TOKYO,Professor)

What kind of a world do we live in today? Various goods, food, news, and money now move freely more than ever beyond national borders. 700 million travelers hop on 44 million airplanes annually to fly to overseas destinations. It is indeed "One World" now. But the pursuit of material wealth on a planet with limited resources has led to dire consequences. Recent scientific research (see the report at http://www.sos2006.jp) has shown that we will now face a serious environmental crisis around the year 2025. (The average temperature of Earth has already risen by 0.8℃ in 2003. If we continue on this present path of pursuing economic growth at the price of destroying the environment, the temperature is expected to rise a further 2℃ twenty years from now.) If the temperature indeed does have risen 2℃ in the year 2050, it is estimated that 2.7 billion people will face water shortage, 300 million plagued by malaria, 30 million affected by the rising sea-level, 10 million threatened with starvation − in total, 2.94 billion people will be under various risks caused by climate change. Earth is not ours to do as we just please: it belongs to all the life that inhabits it, and don't also forget, we are just temporary caretakers, entrusted to hand down Earth in good condition to future generations of life yet to be born. It is our responsibility to share the wealth and the joy of life we enjoy with people all around the world. Therefore we must join hands together and make use of all our wisdom and knowledge to pull through this foreseeable crisis. Today, 4.2 babies are born per second on this Earth. Don't you think we have a responsibility to bring these babies up in a future that has a chance?

Dr. Ryoichi Yamamoto : Graduated from the Faculty of Engineering, University of Tokyo, 1969. Received his doctorate from University of Tokyo, 1974. Presently : Professor, Institute of Industrial Science, University of Tokyo (International Research Center for Sustainable Materials) Policy Advisor on Science & Technology to the Japanese Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology.

Dr. Yamamoto's other positions include :
Honorary President, Eco Material Society President, Institute of Life Cycle Assessment, Japan Trustee, Social Investment Forum Japan President, Japan Forum for Environmental Efficiency President, International Green Purchasing Network

002:レスター・ブラウン

2025年に、この地球が、いまよりも安らいだ状態になっていればよいですね。
そのために、私たちは何をしましょうか。
その「何を」を探すのが「2025プロジェクト」です。
もっとも、これはそれほどむずかしいことではありません。
なぜなら、「何を」のサクセス・ストーリーは世界のあちこちに、 もちろんあなたのまわりにもあります。
たとえ小さなことでも、それを広めてゆけば、 「2025プロジェクト」もサクセス・ストーリーになります。
まずは今日の世界を「見る」、「聞く」、「肌で感じる」、つまり「知る」ことです。
アメリカのある経済学者がこんなことをいっています。
「貧しい子どもたちにぜいたくではないが十分な食べ物、 そして勉強できるチャンスを用意しよう。
豊かな人々、豊かな国々が自分たちの財布から、ほんのわずかなお金を出せば、実現できるのです。
それだけ充分なモノは世界にあるのです。これは人類の歴史のなかで、初めてのことです」

未来はあなたたちのものです。
この本(『たりないピース』)は、問題から逃げないで
「未来を大切にしたい」
「できれば少し、よい方向にもっていきたい」
そんな気持になるきっかけを与えてくれることでしょう。


レスター・ブラウン:
934年、ニュージャージー州生まれ。ラトガーズ大学、ハーバード大学で農学・行政学を修める。農務省にて国際農業開発局長を務める。74年、地球環境問題に取り組むワールドウォッチ研究所を創設。84年には『地球白書』を創刊。2001年5月、アースポリシー研究所を創設して所長に就任。著書に『エコ・エコノミー』『プランB』『フードセキュリティー』など。 94年、旭硝子財団よりブループラネット賞受賞。


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002:Lester R. Brown

Wouldn't it be nice if there were less stress put upon Mother Earth in 2025? Isn't there something we can do about it?
Finding that something is what 2025 Project is all about.
Sounds like an enormous task? Think again.
There are a lot of examples of that something all over the world, even around you.
Maybe small examples, but add them up, let those examples multiply through the whole world - then the 2025 Project will have proven to be a success. For that end, we need to see, hear, feel, and know what is really going around in this world.
One American Economist has this to say to us:
"Why not provide sufficient food and opportunity for receiving education for the poor children of the world?

If the people of the rich nations in the world spared only a trifle of their money, it can certainly be done. For the first time in human history, there are enough goods in the World for that to be realized." Yes, the future is in your hands.
Reading this book ("Missing Peace") will offer a good opportunity to face the problem eye to eye, and feel strongly about making the future a better one.

Lester R. Brown:
Born in 1934, in New Hampshire, U.S.A., Brown studied Agricultural Science at Rutgers University, and Public Administrations at Harvard University.
After serving as the Administrator of the International Agricultural Development Service at the U.S. Department of Agriculture, Brown founded the Worldwatch Institute, devoted to the analysis of global environment issues, in 1974. Brown founded and became the President of the Earth Policy Institute in May 2001.
Brown is the author of many books and publications such as:
Eco-Economy: Building an Economy for the Earth (2001)
Plan B: Rescuing a Planet under Stress and a Civilization in Trouble (2003)
Outgrowing the Earth: The Food Security Challenge in an Age of Falling Water Tables and Rising Temperatures (2005)
Brown is the Recipient of the 1994 Blue Planet Prize from the Asahi Glass Foundation.

001:福井 崇人(2025プロジェクト発起人)

いまハリウッドでは、お金があって贅沢な暮らしはできるけれど、環境のこと、地球のことを考えて暮らしている人たち、たとえばレオナルド・ディカプリオ、アンジェリーナ・ジョリー、ブラッド・ピットなど、エコロジーに意識的な(エココンシャスな)人たちが増えています。常に注目を集める彼らの発言や行動は、多くの人々にインスピレーションを与え、その新しいライフスタイルは急速に広まっています。

私は2004年の夏「100万人のキャンドルナイト」という企画で、宮崎あおいさんとご一緒させていただきました。そのとき以来、あおいさんにハリウッドの彼らに通じるエココンシャスなセンスを感じていました。 その半年後、2005年1月、NGO「シャプラニール」の坂口事務局長から、広告制作の依頼を受けました。ただ、多くの人に広告を見てもらうには、多くのお金がかかります。企業と違ってほとんど予算のないNGOにはどうしても「届かない」という壁がありました。 そこで環境・社会問題に関心のあるあおいさんと、活動をアピールして支援の輪を広げたいNGOをうまくつなげることはできないだろうかと考えました。こうして生まれたのがプロジェクト001『たりないピース』の本です。

この本を作る過程で、2025年の持続可能な社会をめざして活動するチーム、2025プロジェクトを立ち上げました。2025年にどんな暮らしをしていたいのかはっきりイメージすれば、そこから逆にいまやるべきことが見えてくるはず。この考え方は、スウェーデン環境省が1996年に持続可能な社会の構築のために策定したビジョン「スウェーデン2021」にインスパイアされたものです。スウェーデンでは、人も技術も一世代変わる25年を単位にビジョンの実現に取り組んでいますが、私たちはもう少し急いで、20年としました。 ところが2025年という数字は、想像以上に重い意味を背負っていたのです。2005年夏、顧問の山本良一先生を駒場の東京大学に訪ねると、先生はこう言いました。 「2025年ですか……。ちょうどそのころ、人類は破滅かどうかの瀬戸際にいるかもしれませんね」

このまま地球温暖化が進行し、気温が2度上がったとすると、集中豪雨、乾季、熱波、大型台風、マラリアなどの病気などが世界中で発生、数十億の人口が影響を受ける、という恐ろしい予測がされているのです。

将来後悔しないためにも、このプロジェクトはこれで終わりではなく、第2弾、第3弾、それ以降へと続けていかなければいけない。そう思いました。今後プロジェクトが持続していけるように、自分にできることをやっていきたいと思います。

※今後このコラムのコーナーでは、各界の方々に「こんな社会になって欲しいという2025年の未来図を語っていただく予定です。お楽しみに。
※山本良一先生が共同座長を務めるプロジェクト『サスティナビリティの科学的基礎に関する調査』の詳細はhttp://www.sos2006.jp/をご覧下さい。

福井崇人:ふくいたかし
1967年 兵庫県生まれ
1990年 広告代理店入社
アートディレクターをつとめる。


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001:2025 Project Initiator : Takashi Fukui


In Today's Hollywood, despite being rich and having the means to lead a pampered, luxurious life-style, more and more celebrities are instead leading their lives highly- conscious of the Environment and Earth. Being the target of constant media attention, the public comments and actions of these "Eco-conscious" celebrities such as Leonardo DiCaprio, Angelina Jolie, and Brad Pitt, are becoming sources of inspiration for a lot of people and their life-styles are steadily gaining followers.
In the summer of 2004, during "The Candle Night by the Million" event, I had the occasion to meet Miss Aoi Miyazaki for the first time. I came out from that encounter feeling and admiring this Eco-conscious attitude akin to those Hollywood actors in her. About half a year later, I was asked by Mr. Sakaguchi, Director of the NGO "Shapla Neer" to produce an advertisement for their activities. The sad fact in life is that it takes a lot of money to mount an advertisement that would gain the attention of many people. Operating on a much smaller budget than corporate enterprises, this is not something an NGO can easily overcome. So I sat down to think if there wasn't an appropriate venue to bring together Miss Miyazaki, who has a strong interest in environmental & social issues, with the NGO in need to publicize their activities in order to gain more public support. This is how the Project 001 book "Missing Peace" was born. Through the process of producing this book, we decided to launch the 2025 Project, a project team aiming for a Sustainable Society in 2025. This project is based on the idea that, if we knew what kind of a life we want to lead in the year 2025, then we would have a more clear idea of what to do now. This idea was inspired by the "Sweden 2021" Vision released in 1996 by the Swedish Ministry of the Environment for the pursuit of constructing a sustainable society. In Sweden, the envisioned time frame is 25 years, meaning roughly a generation for both humans and technical innovations. But we decided to be a little hastier and made 20 years our target.
But our target year 2025 had deeper implications than we had originally recognized. When I happened to visit our advisor Dr. Yamamoto at his office in University of Tokyo's Komaba Campus, Dr. Yamamoto had this to say to me:
"You say, 2025? Well, the human race might be on the verge of destruction just around that time."
Scientists have come out with the dire prediction that if the global temperature rises two degrees due to the present course of global warming, 2~3 billion people around the world would be affected by various disasters such as strong local downpours, droughts, heatwaves, large-scale typhoons, and malaria breakouts.
I thought to myself: I don't want to regret in the future for not having done what I can do now. Why, this project can't just end as a one-time project. A second project, a third project, and even more projects must continue. My mind was made up. I will do whatever I can do to continue with this project.

Takashi Fukui:Born in 1967,in Hyogo-ken Japan.In '90,join a major ad agency.Engaging in Art Direction.